関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1658 大河ドラマ探訪384「真田丸」48 忍城開城の時期・その経緯

<<   作成日時 : 2016/06/24 10:56   >>

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 大河ドラマ「真田丸」第23回「攻略」で、忍城の開城には、北条氏政の甲を利用した真田昌幸の作戦(血の付いていない甲を籠城している忍城の人々に見せることによって、氏政が家臣を見捨てて自分だけ助かったと思わせるというもの)が功を奏したという描き方がされていました。しかし、実際には、当時小田原城にいた忍城城主の成田氏長が、忍城に籠城している人々に降伏を促し、それに応じて開城しています。忍城が開城したのは、一般的には小田原城が開城後の7月14日ないし16日頃とされており、「真田丸」でも小田原開城後の14日のことだとして描かれていました。しかし、忍城開城の時期については、桐野作人氏の「火縄銃・大筒・騎馬・鉄甲船の威力」(新人物往来社)の中で、次のように記されています。
 「忍城が開城した日にちについても、二説ある。6月27日説(『関八州古戦録』『稿本石田三成』など。『忍城戦記』も25日の直後とする)と7月16日説(『行田市史』など)である。
 現在は小田原開城のあととする後者が通説となった感がある。しかし、小田原城中にいた成田氏長が秀吉の勧めで、6月20日頃に投降を承諾している事実がある。これが忍城に伝えられ、折から水攻めを受ける苦衷と相まって、6月27日に開城したとするほうが合理的な解釈ではないだろうか」と。。
 要するに、小田原開城の前に忍城は開城していたというのが桐野氏の見解です。さらに桐野氏の同書には、「忍城水攻めは、近世以降、『三成凡将』説を強調せんとする意図のためか、その意義が軽視されているように感じる」と指摘されています。
 さて、「真田丸」では、三成は真田昌幸の卑怯な作戦が成功したことに対して、「貴殿のやり方は好かん。だが、貴殿のおかげで無駄な犠牲を払わずに済んだ」と真田昌幸に言っていましたが、戦いはなるべく避けたいという三成の思いが表れているのでしょう。さらに、三成は昌幸に向かって「いくさのなんたるかをもっと教えていただけぬか」と今までの高慢な態度を改めて頼んでいましたが、昌幸のことを見直したということでしょうし、昌幸も「わたしのような田舎侍でよければ」と答え、三成は珍しく微笑んでうなずいていました。三成は昌幸から学んだ戦いの仕方を関ヶ原の戦いで発揮するという伏線になっているのでしょうか。むろん、このあたりはドラマ的な脚色ですが。
 「真田丸」では、上杉景勝も真田昌幸も徳川家康と一緒になって、7月10日、北条氏政に対して切腹しないように説得していましたが、これは明らかなフィクションです。景勝は、松井田城、鉢形城、八王子城などを降伏させた後、7月5日になって忍城に向かっていますから、10日の段階で氏政のもとにいられるはずがありません。昌幸も同様です。
 
 
 

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