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zoom RSS 大河ドラマ探訪385「真田丸」49 信繁は小田原城に使者として行ったのか?

<<   作成日時 : 2016/06/25 11:03   >>

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 大河ドラマ「真田丸」では、小田原城攻めで信繁を活躍させるべく、使者として小田原城に乗り込んでいました。「軍師官兵衛」の再現を見るような思いであり、「軍師官兵衛」では、官兵衛が小田原城に乗り込んで降伏を促していました。
 この点について、16日付の朝日新聞のコラム「三谷幸喜のありふれた生活」の「最新の歴史研究が支えに」の中で、そういう展開にした経緯について次のように記されています。
 「官兵衛は秀吉の命を受けたオフィシャルな交渉係。その裏では、徳川家康らも密かに開城交渉をしていたらしい。官兵衛とは別に、信繁は家康の命令で非公式に氏政に会うというのはどうか。考証の先生たちの意見を踏まえ、プロデューサーが教えてくれた。
 では、なぜ家康は信繁に託したのか。そこからは僕の仕事。その前の回で、秀吉の前で信繁と舌戦を繰り広げた。北条の外交担当板部岡江雪斎と、家康の軍師本多正信を思い出す。信繁の知恵と度胸に惚れ込んだ彼らが動いたことにしよう。こうしてようやく物語が動き出す」などと。
 ドラマを面白くしよう、主人公の活躍を盛り込もうとして、いかに三谷氏が苦労しているのか、うかがえます。もっとも、「真田丸」で描かれていたように、沼田裁判なるものが実施され、三成が進行役を務めていたというのは、史実ではないと、太田浩司氏の「『真田丸』を3倍楽しむ講座」で指摘されていました。拙ブログ記事でも記したように、板部岡が上洛したのは事実ですが、その時、真田側、徳川側、北条側も同席して論じ合ったのは三谷氏の創作であり、三成がてきぱきと裁判を進めていくこともなかったわけです。
 そもそも、信繁は小田原にいたのでしょうか。笹本正治氏の「真田氏三代」(ミネルヴァ書房)には、「北陸道の大将として前田利家・上杉景勝が出陣し、真田父子は関東案内者として先陣を命じられたので、昌幸をはじめ嫡男の信幸、二男の信繁も3月上旬に小県を出て、参陣した」と記されています。
 この記述が正しいとすれば、信繁は真田家や上杉家と行動を共にしていたことになり、小田原城に行く余地はなかったことになります。信繁が「馬廻」と記載されているのは、文禄の役の際の名護屋参陣の際のことですから、今までのところ、それまでに「馬廻」と書かれた史料はないようです。信繁が「馬廻」になった時期が問題となりますし、北条攻めの時はまだ「馬廻」になっていなかった可能性もありますし、あるいは「馬廻」の身分のまま、真田家と行動を共にすることを許されたのかもしれません。このあたりは、今後の検討課題かもしれません。ちなみに、前田利家は途中、伊達政宗が秀吉に出仕した際は、それに立ち会うため、戦列から離れて小田原にいた時期があります。
 
 

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