関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1659 安土城考古博物館の特別展「秀吉の五奉行と関ヶ原合戦」 連署書状・家康禁制

<<   作成日時 : 2016/06/26 11:40   >>

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 滋賀県立安土城考古博物館で開かれていた特別展示「秀吉の五奉行と関ヶ原合戦」に、石田三成等連署書状が展示されていました。慶長2年(1597)1月11日付のもので、草津市の観音寺などに宛てたものです。五奉行のうち浅野長政を除く4名が署名しています。
 この書状の内容について、次のように解説されています。
 「文禄3年(1594)から始まった伏見城増築普請資材の小竹を舟奉行である観音寺に運ばせ、それを坂本(大津市)で朽木元綱に受け取らせるよう指示をしています」と。
 前にも拙ブログ記事で取り上げたことがありますが、曽根勇二氏の「秀吉による伏見・大坂体制の構築」(『偽りの秀吉像を打ち壊す』【柏書房】所収)の中で、材木搬送について、文禄4年7月28日付の美濃の佐藤方政に宛てた浅野長吉・前田玄以・石田三成・富田一白・長束正家連署書状が取り上げられ、次のような説明がされています。
 「秀吉は、文禄2年以降、周辺の大名に木曽山からの材木供出作業を命じています。木曽山で伐採された材木は、木曽川などの河川で搬送され、尾張の犬山で陸上げされてから、美濃や近江を経由し、さらに琵琶湖の水運を利用して、京都や伏見へと運搬されました。伏見城や大坂城は、こうした大名の負担によって運搬された資材で建設されたのです」と。
 安土城考古博物館で特別展示されていた書状も、そういう材木搬送の一端がうかがえるものです。
 また関ヶ原の戦いの翌日に、徳川家康が近江の長命寺(近江八幡市)に出した禁制も展示されていました。この禁制について、次のように解説されています。
 「近江国の大部分は、合戦前は佐和山城(彦根市)主の石田三成や水口岡山城(甲賀市)主の長束正家など西軍の武将の領地でした。ですからこの禁制は、これを出すことで、徳川家の新たな支配を宣言しようとしたと考えられます」と。
 2000年に長浜城歴史博物館で行われた特別展覧会「石田三成 第2章」に、同じ9月16日付で近江国伊香郡の12ヶ村に出した家康禁制が展示されていました。その図録の解説の一節に次のようなことが記されています。
 「関ヶ原東軍の禁制は、それまでの武将連署から、合戦翌日には家康自身が出す形へと変化する」
 家康は関ヶ原の戦いに勝利したことで、豊臣家の大老という立場には変わりないものの、天下取りの道は確実なものになったという思いを持ったということが、確かに禁制からうかがえる気がします。

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