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zoom RSS 石田三成の実像1661 大河ドラマ探訪387「真田丸」51 利休切腹と鶴松の死1 利休の呪い?

<<   作成日時 : 2016/06/29 11:22   >>

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大河ドラマ「真田丸」第25回「別離」は、鶴松の重体の場面から千利休切腹事件にさかのぼるという手法が取られ、鶴松の死は、利休の呪いだという捉え方がされていました。
利休の切腹は天正19年2月28日のことであり、鶴松の死は8月5日のことです。
 利休の呪いだという捉え方が当時されていたのか寡聞にして知りませんが、鶴松はもともと病弱だったということが、福田千鶴氏の「淀殿」(ミネルヴァ書房)に記されています。すなわち、鶴松が生まれたのは天正17年5月27日ですが、10月には病気のため「薬師が大坂城に下向させられて」おり、「翌18年1月には口中を煩い」、7月、11月、19年1月にも病気になり、秀吉は8月「2日に鶴松病気の知らせを受け、ただちに淀に下った」と。
 「真田丸」では、利休切腹事件のきっかけとなったのは、利休が北条氏に武器を供給していたのを、小田原城に乗り込んだ信繁が発見したことだという描き方がされていました。利休が武器商人だったという捉え方であり、利休が秀吉に北条攻めを勧めていたのは、武器を売ってもうけるためだったというわけですが、利休がこういうことをしていたというのは、ドラマ的なフィクションです。利休が茶器などを高く売買していたというところから、武器もありうるのではないかと三谷幸喜氏が思いついたことかもしれません。
 「真田丸」では、信繁がそのことを三成、大谷吉継に報告し、大きな力を持ってきた利休を追い落とすために、大徳寺の三門に置かれた木像を問題にして、さらに死ぬ直前の秀長を動かして、秀吉の処断を求めるという展開でした。
 「真田丸」では、利休を追い落とすのに大谷吉継の方が積極的であるという、今までにはあまり見たことがない捉え方がされており、消極的な三成に対して、吉継は「お主は本当に手を汚すとはどういうことかわかっておらん」と言っていました。
 もっとも、三成も堺奉行として利休は邪魔な存在だと言っていましたし、その流れの上に利休切腹事件があるという描き方がされていましたが、利休切腹事件に三成が関与していたという従来からの捉え方は誤りだと、拙ブログで何度となく指摘してきました。
 第一に三成は利休切腹の直前まで上方を離れていたことが明らかになっています。一揆の鎮圧のため、前年の12月に東北に向かって出発し、戻ってきたのは少なくとも2月中旬頃でした。「少なくとも」というのは、三成が上方に戻ってきたのは、もっと遅かったという白川亨氏の見解があり、その根拠となっているのは、三成や吉継が2月5日の博多の神屋宗湛の茶会に参加していたという「宗湛日記」の記述です。「真田丸」では、三成や吉継はずっと秀吉のもとにいるような描き方になっていました。 
 

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