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zoom RSS 石田三成の実像1639 大河ドラマ探訪377「真田丸」41 三成の描き方23 北条攻め3 惣無事令

<<   作成日時 : 2016/06/03 18:36   >>

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 大河ドラマ「真田丸」では、天正17年の段階で、北条氏政が上洛の条件に沼田領を渡すよう要求していましたが、実際は北条氏規が天正16年8月に上洛した時に、秀吉に沼田の帰属問題の解決を提起したということが、齋藤慎一氏の「戦国時代の終焉」(中公新書)の中に記されています。
 「真田丸」では、この問題に関して北条側の代表として板部岡江雪斎が上洛していました。それは事実ですが、その理由について、齋藤氏の同書では、「氏規上洛時に申し立てた際、事情に詳しい家臣の上洛が秀吉から求められていたためである」と記されています。さらに「審議に際して江雪斎は若神子の合戦での協定の内容について具体的な説明を行った」とありますが、この時の審議及び秀吉の裁定については、次回の「真田丸」で描かれるものと思われます。
 「若神子の合戦での協定の内容」とは、沼田領は「家康より北条氏政・氏直に権利が認められた」ことを指します。
 ちなみに、江雪斎は後に秀吉の御伽衆になり、伏見城に屋敷を与えられますが、そのそばにあった池が江雪池という名前になって残っています。江雪池については、以前、拙ブログ記事で取り上げたことがあります。
 「真田丸」では、三成は北条攻めについて「大いくさになれば惣無事がだいなしになる」と反対していましたが、実際に北条攻めを惣無事令がだいなしになるという観点で三成が考えていたかどうかは定かではありません。しかし、惣無事令や太閤検地・刀狩令などの秀吉政権の重要施策を推進したのは三成ら吏僚層だという太田浩司氏の見解が「近江を生んだ知将 石田三成」(サンライズ出版)で示されていますし、「真田丸」でも三成がそれらの施策を実行したという捉え方がされています。
 もっとも、惣無事令については、竹井英文氏の「秀吉が命じた『惣無事』とは何だったのか」(日本史史料研究会編『秀吉研究の最前線』【洋泉社】所収)では、藤木久志氏が提唱した「惣無事令」というものが実際にあったかどうかについて、それを否定する最新の研究成果も取り上げて詳しく検証されています。
 結論的には、近年は「豊臣政権の『惣無事』政策を相対化して考える視角が提示されるようにな」り、「中世から近世へかけての社会全体の『平和』化への方向性それ自体は正しいだろうし、豊臣政権の諸政策にそうした側面があったことも否定できないだろう。その意味で、単なる武力制圧ではなく、紛争解決による『平和』の実現を掲げて各地に介入していったという藤木久志氏の議論の核心部分は、なお継承していくべきといえよう。一方で、藤田達生氏が明らかにしたように、現実的には軍事的統一の面が大きかったことも事実だろう」と指摘されています。
 「惣無事令」は存在しなかったというのが、藤田達生氏の見解です。

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