千利休切腹事件に三成が関わっていないことを示す根拠の一つとして、三成と大徳寺の特別な関係ということも挙げられます。大徳寺の春屋宗園は、三成の参禅の師であり、三成は宗園のために三玄院を建立しましたし、関ヶ原の戦いで敗れて処刑された三成が三玄院に手厚く葬られたのも、宗園らによってでした。 利休の罪状として言われているのが、大徳寺三門に置かれた利休の木像ですが、大徳寺に難癖をつけるようなことを三成がするはずがありません。もっとも、大河ドラマ「真田丸」では、大徳寺の僧侶も利休の木像の扱いを持て余しているような描き方をしていましたし、もっと奇抜なのは、利休の木像は茶々(淀殿)が発注したものだという、あっと言わせる展開になっていたことです。淀殿は自分でも気が付かないうちに、人々を不幸にしたり死に至らしめたりする人物として設定されています。もちろん、このあたりはフィクションであり、発想のユニークが感じられるものの、いかにも作り物といった印象は否めません。 大谷吉継が利休追い落としに積極的であるというのは、三成が切腹事件に関与していたことをさらに推し進めた「真田丸」ならではの新解釈だと思いますが、昨日の拙ブログ記事で述べたように、吉継も三成同様、2月5日に博多の茶会に出席していたのであれば、実際に「真田丸」で描かれていたように、三成が利休に堺に蟄居を命じることも、その時に吉継が「半月の蟄居の後切腹」と言い渡すということもありえなくなってきます。 利休が堺に追放された時には、切腹という処分はまだ決まっていなかったのではないでしょうか。利休が堺追放を言い渡されたのは2月13日であり、最初から切腹と決まっていたものなら、堺に追放せず、そのまま京の聚楽屋敷で切腹させたと思うのですが。利休が聚楽屋敷に戻ったのは、2月26日ですが、その前日に利休は辞世の和歌や財産処分状などをしたためています。この時点で利休は死を覚悟しており、切腹したのは2月28日です。 さて、鶴松が重態の中、加藤清正と福島正則が病気平癒を願って水ごりをするように三成を誘うものの、三成は一旦断りますが、二人が水を頭からかぶっているところに、三成は出てきて、上半身裸になって、水をかぶっていました。 この時、三成は鶴松が一晩持たないことを承知していましたが、この水ごりは、ポーズではなく、奇跡的にも助かってほしいという気持ちの表れだったのではないでしょうか。豊臣家にとって、鶴松の存在が大きいことを何よりわかっており、豊臣家の安泰を願っての行為であり、三成の「熱い思い」がよく表れている場面でした。三成、清正、正則が豊臣家のためには団結するという良い場面であり、清正も正則も三成のことを認めていたということを示したかったのかもしれません。 |
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