関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1640 大河ドラマ探訪378「真田丸」42 三成の描き方24 北条攻め4 惣無事令2

<<   作成日時 : 2016/06/04 11:05   >>

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 大河ドラマ「真田丸」で三成が口にしていた「惣無事」ですが、「惣無事令」について、太田浩司氏の「近江が生んだ知将 石田三成」(サンライズ出版)では、次のように説明されています。
 「天正13年(1585)に関白となった秀吉が、諸大名に対して発した交戦停止令である。大名間の交戦を『私戦』として、秀吉の『公』の権限で禁止したもの。島津氏や北条氏に対する『征伐』は、この命令に対する違反が口実となった」と。
 「惣無事令」についての最近の研究成果を踏まえた論考は、昨日付の拙ブログ記事で取り上げたように、竹井英文氏の「秀吉が命じた『惣無事』とは何だったのか」(日本史史料研究会編『秀吉研究の最前線』【洋泉社】所収)があります。
 北条攻めに至る経緯については、「真田丸」で具体的に描かれると思いますが、その原因は、真田昌幸の属城である名胡桃城を北条氏が奪ったことが「惣無事令」に違反したとみなされたこと、北条氏政が上洛しなかったことの2点であったと、齋藤慎一氏の「戦国時代の終焉」(中公新書)で指摘されています。
 北条攻めは天正18年のことですが、天正16年8月の北条氏規の上洛による氏政・氏直に対する秀吉の「御赦免」、天正17年2月の板部岡江雪斎の上洛、その後の秀吉による沼田裁定の段階では、北条氏に有利に事が進んでいましたが、11月に起こった名胡桃事件によって、一挙に状況が変わってしまうわけです。
北条氏規の上洛後の、反北条方の宇都宮国綱宛の三成書状を拙ブログ記事で取り上げました(齋藤氏の同書に記載)が、宇都宮氏の早急の上洛を求め、北条氏による私戦はないと記しています。その時点では、秀吉も三成も戦いによらず、関東や東北の諸将が上洛して臣従することが可能だと考えていたかもしれず、そういう意味では、「真田丸」で三成は北条攻めをせず、あくまで北条氏の上洛を促すという描き方がされていたのは間違いではないとも云えます。
 もっとも、「真田丸」では描かれていませんでしたが、秀吉軍は大軍勢を動員して島津攻めをしていますし、それも「惣無事令」に違反しているという理由でしたから、北条攻めもありうるとは思っていたのではないでしょうか。
 なお、宇都宮国綱は、上杉景勝を通して三成に接触していたことが、齋藤氏の同書に記されています。景勝は関東の諸将との取次をしており、真田昌幸・佐野宗綱・皆川広照・宇都宮国綱・佐竹義重と交流していました。一方、北条氏政・氏直との取次は家康がしており、反対に景勝は北条氏と接触した形跡はなく、家康と景勝の間で取次役の棲み分けがなされていたことが、齋藤氏の同書で指摘されています。
 

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