関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1641 「先人たちの底力 知恵泉 石田三成」1 三成の告げ口による清正蟄居?

<<   作成日時 : 2016/06/05 11:25   >>

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 5月31日にEテレで放送された「先人たちの底力 知恵泉」で石田三成が取り上げられていました。「劣勢を覆すには?」というテーマであり、地位も石高も人気もない三成がどうやって不利な状況を覆して、家康を脅かすまでになったのかという点について切り込んでいました。
 三成が地位も石高も家康に比べると格段に劣っていたのは事実ですが、人気もないという点に関しては、異議があります。番組でも「嫌われ者の三成」という言い方がされ、人より組織を優先し、几帳面な性格からちょっとしたミスも上司の秀吉にすぐ報告するせいだと説明されていました、その例として、朝鮮出兵の時、三成は和平交渉を進めようとし、それに反対する清正を排するため、清正の行動を秀吉に報告し、その結果、清正は秀吉によって蟄居を申し渡され、それ以来、清正は三成の命を狙うほど嫌っていたことが挙げられていました。このことについて、ゲストの林家三平さんは、三成の告げ口が、ひいては関ヶ原の敗因につながったというふうに述べていました。
 こういう三成が告げ口をしていたという捉え方が旧態依然としてあり、一番問題に感じました。三成が讒言者だとする見方は、三成を貶めるために江戸時代に作られたものですが、それが今なお信じられており、数々の小説やドラマで三成が讒言したために、千利休切腹事件や豊臣秀次事件を引き起こしたという捉え方がされています。
 清正蟄居事件も同様の捉え方がとかくされがちですが、この点については、拙ブログ記事でも取り上げたように、清正が蟄居させられていた形跡がないことが、伏見大地震の直後に記した清正書状からうかがえると、熊本日日新聞社編の「加藤清正の生涯」に記されていますし、伏見大地震の直後に清正が兵を引き連れて伏見城に駆け付けたために、秀吉に褒められその蟄居が解けたといういわゆる「地震加藤」の話の不自然性についても、西山昭仁氏の「伏見城を襲った歴史に残る大地震」(『週刊 再発見!日本の歴史・豊臣政権と朝鮮出兵の真相』所収)で述べられています。そもそも、清正が帰国したのは和平交渉のためだったとする中野等氏の見解もあります。
 三成に人望がないという点についても、本当に人望がなかったら人を集められるはずがありませんし、三成は三成なりの人脈を築いていたからこそ、関ヶ原でも東軍を上回る兵力を動員できたはずです。同じく「知恵泉」のゲストだった総合スーパーチェーン元専務取締役の塙昭彦氏が、「最終的には人間味、情で動く」「下からやる気にさせる軍団を作ったほうが、遠回りなようでも近道だと思っている」と述べていましたが、三成にもそういうものがあったからこそ、家康を脅かし、関ヶ原の奮戦にまでつながったのではないでしょうか。
 
 

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