関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1642 「先人たちの底力 知恵泉 石田三成」2 「金や地位に対して潔癖であれ」1 

<<   作成日時 : 2016/06/06 16:19   >>

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 5月31日にEテレで放送された「先人たちの底力 知恵泉」で「石田三成」が取り上げられていたのは、三成復権につながるものがあり、その点は大いに評価できます。
 しかし、三成についての捉え方に旧態依然としたものがあり、清正への讒言もそうですが、いくさの際、三成が現場で指揮するより、食糧の調達や輸送を得意とする事務方タイプであり、三成はいくさが苦手だったと紹介されていました。もっとも、関ヶ原の戦いでは、三成ら西軍の布陣は、後にドイツ軍参謀が西軍の勝利を予想した見事なものだったということにも触れられていました。関ヶ原の布陣図に関しては、現在知られているものは、日本陸軍の参謀本部が創作したものであり、江戸時代の布陣図も徳川方の視点に基づいて作成されたもので、信憑性に乏しいことが、白峰旬氏の「関ケ原合戦の真実」(宮帯出版社)で指摘されています。
 三成はいくさが苦手だったという従来の説に対しては、三成は優れた戦略眼を持っていたという見解が、中井俊一郎氏によって示されており、その例として碧蹄館の戦いを勝利に導いたことなどが挙げられています。そのことに関しては、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)や中井氏の「石田三成からの手紙」(サンライズ出版)の中で具体的に論じられています。
 さて、「劣勢を覆すには?」という番組のテーマに対してですが、第一点目として「金や地位に対して潔癖であれ」という点が挙げられていました。そのことに関連して、三成と大谷吉継及び島左近との関係、筑前筑後への大幅加増辞退のことが挙げられていました。
 「知恵泉」では三成は近習時代に、二千石の褒美が秀吉に与えられた時、三成はそれを固辞し、その代わりに吉継を雇ってほしいと勧め、秀吉は吉継を近習として召し抱えたという逸話が紹介されていました。そういうことに恩義を感じていた吉継が、慶長5年7月に三成が家康への挙兵を吉継に打ち明けた時、最初は勝ち目がないと吉継は反対したものの、結局は友の呼びかけに応じたと説明されていました。
 そもそも、吉継が三成の推薦によって秀吉に仕えたということは史実として確認できませんし、番組では吉継は敗れるとわかっていたいくさに友のために命を投げ出したという描き方がされていましたが、私は吉継は勝算があって挙兵したと考えています。吉継も自分一人の体ではなく、一族郎党の命も預かっているわけですから、そういうことを考慮した上での判断だったはずです。
 吉継の仕官に関しては、母の「東殿」が北政所の侍女をしていたという縁故で、秀吉子飼いの家臣の道を歩み始めたということが、外岡慎一郎氏の「大谷吉継の実像」(『歴史読本』2009年7月号所収)で指摘されています。
 

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