関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1645  「知恵泉 石田三成」5 処刑される時の様子・発掘調査に基づく復元像

<<   作成日時 : 2016/06/09 21:04   >>

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 「知恵泉 石田三成」で、三成が処刑された京の六条河原、首がさらされた三条大橋、三成の遺骸が葬られた大徳寺三玄院が紹介されていました。もっとも、三玄院は拝観謝絶ですから、門前が映っているだけでしたが、明治時代の三成の墓の写真が出ていました。
 番組では、石田三成顕彰会の「石田三成公一代絵巻」の「三成処刑の図」が取り上げられ、三成がぴいんと背筋を伸ばして、最期まで自分の意思を貫き通そうとした強さを感じると説明され、三成が僧侶の念仏を断り、最後に言ったとされる「あの世で太閤殿下に会うのが楽しみだ」という言葉が紹介されていました。最期まで豊臣家に尽くし、秀吉の恩に報いたというという思いがあったからだろうと解説されていました。もっとも、三成の最期については、残念ながら一次史料では確かめられないのですが。
 番組では、明治40年に三成の墓の発掘調査を京都大学が行い、頭蓋骨や大腿骨などが見つかり、推定される身長はおよそ156センチだったこと、骨の状態から虚弱体質だったこと、後頭部が突出した才槌頭だったこと、鼻筋が通っていた優男風だったが、出っ歯だったことがわかったと説明されていました。この調査結果をもとに、昭和51年に三成の立体的な復元が試みられ、その像を所蔵している石田多加幸氏のところを番組のスタッフが訪ねていました。
 この復元像は、今まで何度も三成関係の展覧会で見てきましたが、写真では石田多加幸氏の「石田三成写真集」(新人物往来社)においてでだったかもしれません。多加幸氏は石田三成の子とされる「八郎」の子孫である娘さんと結婚した人物ですが、番組でもそのことに触れられていました。もっとも、多加幸氏は結婚した当時は、奥さんが三成の血を引いていることは知らなかったと語っていましたが。それだけ、三成の血を引いていることは引け目を感じる時代が続いたということであり、こういう気持ちは、三成の落とし子伝説がある私の母方の石田家の人々も同様の思いを抱いていますから、よくわかります。
 多加幸氏の奥さんの石田家の先祖の系図も番組でも取り上げられており、その系図は「石田三成写真集」にも載っています。関ヶ原の戦いの後、岡山に逃れて帰農した「八郎」が、三成の子であるということは否定しませんが、次男であるということには疑問があります。系図には、長男は重家と記されており、それは問題ないのですが、津軽に逃れた次男の重成(杉山源吾と改名)、重家同様出家して僧侶になった三男の左吉の名はありません。その系図に辰姫の名はありますが。「八郎」が三成の子であるならば、白川亨氏が指摘されたように、側室の子ではないでしょうか。番組でも、三成の次男を先祖とする杉山家のことまで触れてほしかった気がします。

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