関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1663 大河ドラマ探訪389「真田丸」53 利休切腹と鶴松の死3 利休木像・鶴松葬儀

<<   作成日時 : 2016/07/01 11:02   >>

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 一般的には利休の木像が大徳寺山門の上に安置されたことが、利休切腹事件のきっかけとなったとされており、大河ドラマ「真田丸」でもその線に沿って描かれていましたが、大徳寺の僧が木像を持て余しているという描き方でした。しかし、木像の安置は大徳寺が利休に感謝して行ったことが、川口素生氏の「千利休101の謎」(PHP文庫)に記されています。
 すなわち、「当時の住持である春屋は、寄進をしてくれた利休に感謝の念を抱いたようで」、天正18年(1590)12月「5日に行なわれた落慶法要の前後、春屋は金毛閣の梁に利休の功績を記すと同時に、同じく利休の功績を記した棟札(むねふだ)と、利休の木像とを楼上に安置しました」と。
 文中「春屋」とあるのは、春屋宗園のことであり、三成の参禅の師でした。落慶法要が行われた12月5日に三成が京にいたことは確認できます(「薩藩旧記」の『御日記』に記載があることが、中野等氏『石田三成の居所と行動』に記されています)が、程なく一揆の鎮圧のため東北に向かい、京に戻ってきたのは早くとも2月中旬ですから、その時には利休事件は抜き差しならないところまで進んでいました。これをもってしても、三成が利休事件に関与していないことがわかりますが、師である春屋宗園の行ったことを三成が批判したとは思えません。春屋が三成をこのことで恨んでいたとするなら、後年、母の葬儀を大徳寺の三玄院で行なえたはずはありませんし、関ヶ原の戦いの後処刑された三成の遺骸を春屋が引き取って手厚く葬ることもありえません。
 「真田丸」では、鶴松の死の直前、三成は大谷吉継と相談して、鶴松の遺骸は東福寺に運んで夜を明かし、それから妙心寺に移すという段取りを整えていました。鶴松の葬儀については、福田千鶴氏の「淀殿」(ミネルヴァ書房)には、次のように記されています。
 「鶴松の葬儀は妙心寺で執り行われた。聚楽城に一度戻すことも検討されたようだが、かえって愁傷が深くなるということで、遺骸は直接東福寺に移された(『駒井』)。秀吉もそのまま東福寺の常楽院に入り、元結を切って二泊三日の御籠りを行った。大名・小名・馬廻りの者までが、同じように元結を切って鶴松の喪に服した」などと。
 また三成はこの夜、豊臣家一族を前にして、これからの豊臣家のことをくれぐれも頼み、それぞれの果たすべき役割を話していました。この場に臨んでいた豊臣家の一族は、豊臣秀次、豊臣秀俊(小早川秀秋)、宇喜多秀家、豊臣秀保、豊臣秀勝でしたが、むろん、三成がこういう場を設けたというのはドラマ的な脚色です。第一、当時の三成にそこまで言う権限は与えられていませんでしたし、たとえ秀吉の意に沿ってそういうことを言ったとしても、他の奉行衆も同席していたはずですが、「真田丸」では、三成と吉継以外の奉行衆は全く登場していません。
 

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