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zoom RSS 石田三成の実像1661 坂口裕子氏「古橋村の伝承 石田三成」 3 捕縛を村人が悲しみ哀悼

<<   作成日時 : 2016/07/10 18:53   >>

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 坂口裕子氏の「古橋村の伝承 石田三成」 ですが、「古橋に『金屋(かなや)橋』という名の橋がある。関ケ原合戦後、ここに『三成捕縛に協力すれば金をやる』との『高札』が建てられたと伝えられる」と記されています。
 オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)にもこの橋のことが記されています(「三成伝説」では『金谷橋』と記載されています)が、「金やる橋」と言ったことからそう呼ばれるようになったと説明されています。
 坂口氏の同書には、「古橋は、徳川幕府から村に落人が、かくれられない様に、屋敷を囲む生け垣が禁止された。この為か、今も古橋は囲(かこい)が少ない」と記されていますが、こういうことは「三成伝説」には記載がありません。
 古橋では茶の木が自生していることについては、坂口氏の同書にも「三成伝説」にも記されていますが、その意味については、両書で微妙に違っています。坂口氏の同書には、「『三献茶』の伝承は」、「古橋では法華寺の伝承として大切に伝えられてきた。三成がお茶を好んだということから、古橋には村のあちこちにお茶が自生としているといわれる」と。
 一方、「三成伝説」には、「一説に三成は茶畑に隠れていたところを見つかったという」ことが記され、「背が低く、こんもりと繁る茶畑は、身を隠すのにはうってつけの場所だった、古橋には三成を匿うためなのか、自生の茶の木が多いという」と書かれています。
 三成の捕縛状況が判然としていないことは、拙ブログ記事でも触れましたが、古橋の伝承もいろいろなヴァリエーションがあるようです。捕まった場所については、坂口氏の同書には、「高時川にかかる橋を渡り、下川原から芝谷にさしかかったところ」、「三成伝説」には「高時橋の手前」とそれぞれ記されていますし、上述のように「茶畑」でつかまったという伝承もあります。
 また坂口の同書には、古橋には「雷が落ちない。三成の村人に対する恩義のためか」と記されていますが、雷のことは「三成伝説」には記載がありません。
 両書に共通して記されている古橋の伝承として、他にも「朝霧がなかなか晴れない」「味噌汁に沈む澱(おり)」がありますし、与次郎が三成を背負ったまま飛び降りた崖のことや、カマス(藁で編んだ米や炭を入れる袋)の中に入れられた三成が敵の槍に突かれ゜「うっ」と言ったことも記されています。、
 坂口氏の同書では、「古橋の三成伝承は、そのいずれもが、三成の捕らえられたことを村人が心から悲しみ、哀悼の意を表わし、三成の徳をしたう内容ばかり」とまめられています。一方の「三成伝説」でも、古橋の「言い伝えには、どれも三成を徳川方に差し出さなければならなかった古橋村の民衆の無念の思いが込められている」と記されています。

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