関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1662 大河ドラマ探訪391「真田丸」55 黒田基樹氏の講演「真田家と石田三成」1 

<<   作成日時 : 2016/07/11 11:05   >>

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 昨日、長浜の湖北文化ホールで行われた黒田基樹氏の講演会「真田家と石田三成」を聴きに行ってきました。JR河毛駅から西に歩いて10分程のところにあります。近くにコンビニも飲食店もないので、あらかじめ山科駅のコンビニで弁当を買い、車内で食べました。
 12時18分に駅に着き、少し時間があったので、駅の北東方面を少しぶらつき、谷田神社に立ち寄りました。駅の東側には、小谷山、虎御前山が聳えていますが、講演会の終わりも電車の時間まで時間があったので、小谷山のそばまで行きました。時間があれば、ゆっくり登ってみたいものですが。
 さて、黒田氏の講演会では、時代考証を担当している「真田丸」の話も交えながら、「戦国真田家とは」「取次としての石田三成」「関ヶ原合戦での真田家と石田三成」という項目に従って話が進められて、なかなか興味深い内容でした。
 「真田丸」の三成の描き方が今までと違うのは、秀吉の命令に粛々と従うのではなく、自分の意見も言い、苦悩する姿が描かれている点だと指摘されていました。確かに、三成が秀吉に諫言する場面は今までの大河ドラマであまり見た経験がありません。「黄金の日日」で、利休を切腹させようとした秀吉に対して、三成がそれを止めるように最初に言いに行く場面はありましたが。
 「真田丸」で最新の研究成果が取り入れられていることにも触れられていました。まず真田昌幸が武田氏の付家老となっていたことが明らかになったので、武田勝頼の軍議の場にも昌幸は加わっていたという描き方になったこと、最初真田家は国衆であったという黒田氏の見解に基づき、第三回から国衆という言い方を用いたこと(第一回、第二回は武田氏滅亡がメインとなっているので、煩雑になるため、国衆という言い方をするのは敢えて歌避けたということで)、信繁は秀吉の馬廻衆になっていたという最新の研究成果により、いろいろな人物と絡ませることが可能になったこと、さらに秀次切腹事件に関しては、矢部健太郎氏の最新の研究成果に基づいた描き方になりそうだということなど。
 なお、利休事件に関しては、本当の原因はわかっていないので、脚本家の三谷幸喜氏の自由な発想によって、あのような展開になった(北条氏に大量の鉛を売っていたことなど)ことにも触れられていました。
 信繁は永禄10年(1567)に生まれた(信幸は一歳年上)という説が一般的であり、「真田丸」も通説に従って描かれているものの、最近は元亀3年(1572)生まれという説が出ており、講演会のレジュメにもその新説の方が載っています。
  

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