関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1663 大河ドラマ探訪392「真田丸」56 黒田基樹氏の講演「真田家と石田三成」2 

<<   作成日時 : 2016/07/12 11:09   >>

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 7月10日に長浜で行われた黒田基樹氏の講演「真田家と石田三成」で、真田家の初代は幸綱、2代目は信綱(幸綱の長男)、3代目は昌幸(幸綱の三男)、4代目は信之(昌幸の長男)だと説明されていました。初代は一般的には幸隆と把握していますが、幸綱が正しいと指摘されていました。このことは、丸島和洋氏の「真田四代と信繁」(平凡社新書)にも記されています。
 信綱の娘が清音院殿であり、信幸と結婚しましたが、それが「真田丸」では「こう」という名前になっていると、「真田信之関係系図」(黒田氏『真田信之 真田家を継いだ男の半生』所載)をもとに説明されていました。拙ブログ記事でも取り上げたように、太田浩司氏の「大河ドラマ『真田丸』を3倍楽しむ講座」では、「こう」と信之の婚儀は、昌幸が真田家の跡取りであることを正当化する重要な女性であるので、「こう」を離縁して、本多忠勝の娘の小松殿を正室として迎えた後、「こう」が侍女となるのはありえないと指摘されていましたが、この点の言及は、黒田氏の講演会ではありませんでした。
 豊臣時代の真田家について、天正18年の北条攻めの後、家康の与力から離れて、独立した大名になったと、講演会では説明され、「真田丸」でもそのように描かれていました。
 昌幸は信濃上田領3万8千石、信幸は上野沼田領2万7千石を領したものの、両者は家臣もはっきり分かれ、それだから、関ヶ原の戦いで両者が袂をわかった際も、内乱などは起こらなかったと説明されていました。もっとも、信幸が天正18年の時点で、家康の与力にはなっていなかったとも述べられていました。
 一方、信繁は秀吉の旗本家臣になり、上田領で1万9千石を領し、真田家全体では8万4千石を領有しましたから、かなりの石高であると述べられていました。
 関ヶ原の戦いの結果、上田城は徹底的な破壊を受けたことにも触れられていましたが、秀忠軍を悩まし、関ヶ原に間に合わないようにさせた城ですから、徳川家の怒りによってそれほどひどい扱いを受けたわけです。石田三成の居城だった佐和山城も徹底的な破壊を受けたのも、家康に逆らったためだと思っていましたが、林昭男氏の講演会「石田三成と佐和山城」で、井伊家は、関ヶ原の戦いの後、佐和山城を拝領したので、特別な思いを持っており、彦根城を築城した後、佐和山を破却したのも、聖なる山に戻すためであったする見解を示され、三成の記憶を消すためだけでなく、そういう見方もありうるかもしれないと思いました。
信之は元和2年8月頃、本城を沼田城から上田城に移していますが、家康の死後4ヶ月のことだと説明されていました。それだけ、信之にとっては、上田城に愛着があったのでしょうし、昌幸・信繁に対する特別な思いがあったと思われます。信之が自分宛の三成書状を大事に保管していたこともその表れですし、その三成書状については、その内容が講演会の後半で詳しく取り上げられていました。
 

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