関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 石田三成の実像1664 大河ドラマ探訪393「真田丸」57 黒田氏「真田家と石田三成」3 取次として

<<   作成日時 : 2016/07/13 10:45   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0

 黒田基樹氏の講演「真田家と石田三成」で、真田家の取次は最初が秀吉の側近で三成の妻の伯父に当たる尾藤左衛門尉(天正14年11月21日付の秀吉朱印状の添状)、次に浅野長吉(長政)と石田三成(天正17年11月21日付の秀吉朱印状の添状から)、最後は石田三成のみ(天正18年4月29日付の秀吉朱印状から)が務めたとが述べられていました。
 ちなみに、天正14年11月21日付の秀吉朱印状について、丸島和洋氏の「真田四代と信繁」(平凡社新書)には、「秀吉は真田昌幸に赦免を通達し、改めて上洛を命じた」と記されています。丸島氏の同書では、赦免の理由について、上杉景勝が嘆願したからだけでなく、家康が上洛して秀吉に臣従したことが影響したと指摘されています。
 天正17年11月21日付の秀吉朱印状については、丸島氏の同書の年表には、「秀吉が北条氏直の非を弾劾し、出兵を決める(小田原合戦の始まり)」と記されています。
 天正18年4月29日付の秀吉朱印状については、やはり丸島氏の同書には、「昌幸は秀吉から『東国之習(ならい)』である女子供の『乱取(らんど)り』(人狩り)を厳しく禁じる通達を受けた」と記されており、その意図について、「秀吉の発言はある種の方便で、これから豊臣政権の領国となる北条領の荒廃を最低限に抑えようとしたのであろう」と指摘されています。
 黒田氏の講演会では、取次について、「真田家から秀吉への要請などもすべて取次ぎ、秀吉からの命令もすべて取次を通じてもたらされる」と説明され、レジュメにもそう掲載されていました。
 取次については、大名の指南的な役割も果たしましたから、秀吉の命令を伝えるべく時には威圧的な態度を取ったかもしれませんが、「真田丸」で描かれたように、最初真田家の人々に対して、三成が尊大な態度を取っていたという描き方は極端過ぎており、「横柄者」という従来の三成のイメージに捉われているという印象を持ちました。
 講演会のレジュメには、「真田・石田・大谷関係系図」も掲載され、宇多家、石川家も含めた関係が記されています。信繁がやがて大谷吉継の娘(系図では竹林院殿)と結婚することは、「真田丸」のナレーションでも説明されていましたが、講演会でも触れられていました。宇多頼忠の娘が三成と結婚しており、頼忠の息子の頼次が三成の父の正継の養子になって三成と義兄弟となったこと、その頼次に昌幸の娘が嫁いでいること、三成の妹が石川光重の息子の一宗に嫁ぎ、同じ光重の息子の光吉の子が、信繁と竹林院殿との間の娘のおかねと結婚していることも、その系図には掲載されています。しかし、昔からの通説である、昌幸と三成が共に宇多頼忠の娘を妻にしており義兄弟であったことはこの系図には記されていませんが、否定的な見解が取られていることがわかります。
 
  

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
石田三成の実像1664 大河ドラマ探訪393「真田丸」57 黒田氏「真田家と石田三成」3 取次として 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる