関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 石田三成の実像1666大河ドラマ探訪395「真田丸」59 黒田基樹氏講演5 慶長3年5月28日付書状

<<   作成日時 : 2016/07/15 18:28   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 0

 長浜で行われた黒田基樹氏の講演「真田家と石田三成」の中で、真田信幸宛の三成書状が取り上げられていましたが、年次が明らかになったもう一通の三成書状は慶長3年(1598)5月28日付のもので、講演会のレジュメには次のように現代語訳されています。
 「昨日下向しようと思っていたところ、決定にはならなかったので、面会して話しをしたいこと、しかし客が来ているので、詳しい話しは残しておきたい」と。
 下向とは、この場合九州への下向です。
 中野等氏の「石田三成の居所と行動」(藤井讓治氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】所収)には、このあたりの三成について、次のように記されています。
 「小早川秀秋の北庄転封をうけ、旧小早川領国は石田三成が代官として支配にあたる事が決定する。(中略)
 三成は九州下向を在近江の家臣に報じ(『大阪城天守閣所蔵文書』)、嶋井宗室に充てて嶋井邸を博多での宿所とすることを告げる(『嶋井氏文書』)。三成は5月29日に京を発して筑前に下向する(『是斎重鑑覚書』)」などと。
 信幸宛三成書状から、最初は5月27日に下向する予定だったことがわかりますし、三成の肉声が伝わってくるような気がします。文中に「三成は九州下向を在近江の家臣に報じ」とありますが、大音新介宛の書状であり、中井俊一郎氏の「石田三成からの手紙」(サンライズ出版)には、この書状が取り上げられ、詳しく論じられていますし、私も展覧会で何度かこの書状を見たことがあります。この書状で、三成は秀吉から小早川の旧領である筑前・筑後を与えるという話を断り、秀吉のそばにいる道を選んだことが書かれています。三成に小早川の旧領が与えられようとしていたことは、中野氏の同書でも、5月26日付の島津義弘・忠恒宛の福原長嵩・垣見一直・熊谷直盛連署状にそういう記述があることが指摘されています。
 講演会では、信幸に三成が13通も書状を送った背景として、三成が真田家の取次をしていたという事情があるものの、二人はそういう関係を超えた私的な親しい関係を結んでいたことが、書状からわかると指摘されていました。
 年月不明の6日付の書状では鷹を贈られたことに対する礼を述べ、日付なしの書状では、信幸から依頼された植竹について、今はないが、すぐに町屋敷で渡すので、その時に来てほしいことなどが記されています。三成が鷹狩りマニアだったことは、中井俊一郎氏の同書で詳しく論じられていますが、信幸と三成がそういうものをやり取りする親密な関係だったことは、「真田丸」でも描かれるでしょうか。
 

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 2
なるほど(納得、参考になった、ヘー)
面白い

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
石田三成の実像1666大河ドラマ探訪395「真田丸」59 黒田基樹氏講演5 慶長3年5月28日付書状 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる