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zoom RSS 石田三成の実像1670 大河ドラマ探訪399「真田丸」63 黒田基樹氏の講演9 昌幸宛三成書状

<<   作成日時 : 2016/07/19 10:33   >>

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 長浜で行われた黒田基樹氏の講演「真田家と石田三成」の中で、慶長5年7月30日付の真田昌幸宛三成書状が取り上げられていましたが、この書状については、中井俊一郎氏の「石田三成からの手紙」(サンライズ出版)の中でも論じられています。
 三成は8月5日、6日、10日と立て続けに昌幸(信幸や信繁の名も含んでいるものもありますが)に書状を出しています。講演会では、「三成は昌幸に、@上杉景勝との連絡の確保、A信濃徳川方大名領の経略、を求める。その対価として、信濃・甲斐2ヶ国の充行、美濃からの援軍派遣を示す。しかし昌幸は、実現困難。上杉との連絡は上野沼田領を経由するが、信幸は徳川方」であり、「周辺大名領への侵攻も、兵力から不可能」だったと説明されていました。
 まず「上杉景勝との連絡の確保」ですが、30日付の昌幸宛の三成書状の中に、次のように記されています(現代語訳は中井氏の同書に拠っています)。
 「こちらからは使者を3人遣わしています。一人は返事を添えてお返しください。残り二人は会津への書状をもっていますので、そちらで確かな者を添えて会津へ遣わすようお願いします」と。
 この時点で、三成は信幸が昌幸と行動を共にしていたと思っていましたから、会津への連絡はたやすくつくと思っていたはずです。10日付書状には、宛名に昌幸、信繁とあって信幸の名がないことから、その時点では信幸が徳川方についたことを三成は知っていたことになります。
 「信濃・甲斐2ヶ国の充行」については、10日付の三成書状の中に、「信州の儀は申すに及ばず、甲州までも貴所御仕置これあるべきの旨」などと記されています。
 しかし、三成の思惑は外れ、「その後、上田城周辺通路が徳川方に押さえられたため、連絡は途絶」したと講演会で説明されていました。
 講演会では、三成が関東に攻め込むつもりだったことも指摘されていましたが、そのことは7月30日付の昌幸宛の書状に、「今年の暮れから来年の春の間に、関東を懲らしめるために軍を差し向けるつもりです」(笹本正治氏の現代語訳に拠っています)と記されています。三成はもっと長期戦になることを覚悟していたことがわかりますが、昌幸にも他領に討って出ることを期待していました。しかし、実際には三成の思うようにはことは運ばなかったことにも触れられていました。関ヶ原の合戦に至るまでの三成の戦略を知る上でも、昌幸宛の三成書状は意義深いものがあります。
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