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zoom RSS 石田三成の実像1671 大河ドラマ探訪400「真田丸」64 秀次切腹1「三谷幸喜のありふれた生活」 

<<   作成日時 : 2016/07/20 18:06   >>

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 大河ドラマ「真田丸」では、黒田基樹氏の講演「真田家と石田三成」で示唆されていたように、豊臣秀次の切腹は秀吉が命じたものではなく、自分の意思で自害したという描き方になっていました。その見解は、矢部健太郎氏によって唱えられたものですが、この新説について、朝日新聞に連載されている「三谷幸喜のありふれた生活」の7月14日付の「関白・秀次の最期を思う」の中で次のように記されています。
 「秀吉は甥の秀次を死なせるつもりはなかったし、秀次に死ななければならない理由もなかったという新しい説だ。
 新しい見方がすべて正しいとは限らないが、ドラマを書くに当たり、自分の『豊臣秀次』がどんな人物なんだろうと考えた時、僕にはこの説が一番しっくりきた。当事者たちのほんのちょっとした思いの『ずれ』が、取り返しのつかない悲劇を生んでしまうというのは、とてもリアルだ。(中略)
 必死に秀次に自分を重ね合わせ、心の中の彼に、なぜあなたは死ななければならなかったのか、と問い続けた結果、なによりも腑に落ちたのがこの解釈だった。腑に落ちた瞬間、秀次が、秀吉が、そして真田信繁ら周囲の人々が僕の頭の中で生き生きと動き出した」と。
 「真田丸」では、秀次の出奔、高野山での自害を軸に、秀次が大坂城のきりに会いに行ったり、信繁が秀次の
出奔のことを大谷吉継に相談に行ったり、信幸が秀次に高野山まで同行したり、そのことを知った三成が信繁を高野山に派遣したり、信幸、信繁、使者として来ていた福島正則が秀次の自害を知って慌てて部屋に駆けつけたりという流れになっていましたが、そういう展開はほとんどがフィクションです。
 もっとも、秀次が勝手に高野山に行った秀吉が、三成に対して「謀反の罪でもかぶせておけ。一ヶ月ほどしたら、嫌疑が晴れたとして連れ戻す」と言っていましたが、これは史実的には7月12日付の「秀次高野住山」令を踏まえたものだと思われます。矢部氏の「関白秀次の切腹」(角川書店)には、この令の「第二条・第三条の指示内容は、『ある程度長期にわたる秀次の高野住山に対し、番を整備する』ということである」と記され、一ヶ月よりももっと長い期間を想定していたかもしれませんし、その令には、謀反というような言葉は使われていません。
 信幸も信繁も高野山に来た形跡はありませんが、福島正則は使者として実際にきていました。矢部氏の同書には、三成ら奉行衆と対立していた正則が巻き返しを図って秀次に自害を勧めたのではないかということが記されていますが、この点については、私は充分検討の余地があると思っています。そもそも、この時点で正則と三成ら奉行衆の対立があったとする見方には疑問を持っています。「真田丸」でも正則が自害を勧めたという描き方はされていませんでした。
 

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