関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1676 大河ドラマ探訪405「真田丸」69 「秀吉チルドレンそれぞれの正義」3

<<   作成日時 : 2016/07/25 11:02   >>

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 NHKで放送された「真田丸第二章まるわかり 秀吉チルドレンそれぞれの正義」において、三成演じる山本耕史さんは、三成の居城であった佐和山城に登っていましたが、三成が32才の時に秀吉によって佐和山城を与えられ、加増の話もあったもののそれを断り秀吉のそばで仕える道を選んだこと、今は石垣がわずかに残るだけで、東軍によって破壊されたと説明されていました。
もっもも、32才の時にというのは、佐和山城の代官に任命されただけで、正式に佐和山城主となるのは、これより4年後の36才の時だという説もあります。また東軍によって破壊されたというのは正確ではなく、関ヶ原の戦いで勝利した井伊直政は佐和山城を拝領し、直政は佐和山城で亡くなりましたから、井伊家にとって佐和山は特別な存在でした。井伊家はその後、新たに彦根城を築き、その時に佐和山城が徹底的な破壊を受け、それ以来佐和山が入山禁止に禁止になったのは事実であり、そこには三成の事績を消そうとしいう明確な意思が働いていたものと思われます。
 番組では、次に佐和山研究会代表でオンライン三成会員でもある田附清子氏の案内で、佐和山の西麓にある龍譚寺を訪ね、住職さんとも会っていました。
まず佐和山城で使われていた鐘が紹介されていましたが、興味深かったのは、三成の屋敷にあったといわれている板戸の絵の表と裏の違いについて解説されていたことでした。表はきらびやかに咲く満開の八重桜が描かれ、裏は色彩もない墨絵で葡萄や芭蕉が描かれ、表は人に見せるために派手にするが、内側はプライベートな空間であり、質素にしており、そこに三成の合理精神が表れていると田付氏は説明されていました。
 落城した佐和山城に入った東軍が、城内が質素だったのを知って驚くという逸話がありますが、この話を証拠立てるような板戸の作りです。
 番組では龍譚寺蔵の三成の辞世の歌である「散り残る紅葉はことにいとおしき秋の名残りはこればかりぞと」も紹介されていました。この歌は短冊に書かれたものであり、この「散り残る紅葉」は三成自身のことだと説明されていました。これは中井俊一郎氏の「石田三成からの手紙」(サンライズ出版)でも、「秀頼に例えたという人もいるが、これはやはり、三成自身のこと」と記されています。
 中井氏の同書では、さらに「自分自身の生き方を貫いたときに、最期に感じた美しさが詠みこまれた歌ではないだろうか」と記され、「三成の理想、戦国の世に秩序をもたらすという思いは、皮肉なことにその敵、家康によって引き継がれ、実現されることとなった」と指摘されています。
太田浩司氏の「近江が生んだ知将 石田三成」(サンライズ出版)では、三成が「新たな政治・経済システムを構築した政治家」であると指摘し、徳川幕府の「経済的・社会的なシステムは、三成らの秀吉政権が造り上げたきたものを踏襲」したと記されています。
 こういう観点は、とかく忘れがちであり、三成の果たした役割の大きさはもっと見直さねばならないと思います。
 

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