関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1680  「片岡愛之助の解明!歴史捜査」2 統治能力・忍城の水攻めはできなかった

<<   作成日時 : 2016/07/29 16:27   >>

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 BSで放送された「片岡愛之助の解明!歴史捜査 豊臣に命を捧げた戦国武将 石田三成の実像を追え」は、三成の姿が江戸時代に歪められたことがテーマの中心でした。その一つに「石田軍記」が挙げられ、拙ブログで前に取り上げたように、家が貧しくて寺に預けられた記述が間違いであることが確かめられていました。「石田軍記」には、千利休切腹事件や豊臣秀次切腹事件が三成の策謀によるものであると記されていることにも触れられていましたが、番組ではその検証はされていませんでした。しかし、これらの事件への三成の関与が事実ではないことは、拙ブログでたびたび述べてきました。
 番組では、三成の優れた統治能力を示すものとして、黒田村宛の九ヶ条の村掟が挙げられ、太田浩司氏がその村掟について解説していました。家数が95軒と明記され、三成は当時としては画期的だった村の世帯数を把握していたこと、これも画期的であった税率をきちんと決め、それを農民に明確に示していたことなどが、三成の統治能力の高さを示していると。こういう統治能力の高さが秀吉に見込まれ、太閤検地や刀狩などの政策も三成が具体的な計画を立て秀吉に進言して進められたとも太田氏は説明されていました。
 三成がいくさ下手だと言われることについて、番組では忍城の水攻めの失敗が基となっているものの、実際、水攻めを命じたのは秀吉であり、また水攻めはできなかったことを行田市郷土半物館副館長の鈴木紀三雄氏が述べていました。
 忍城の水攻めが秀吉の命令だったことを示すものとして、天正18年6月20日付の三成宛の秀吉朱印状、6月13日付の浅野長吉宛の三成書状が挙げられていました。もっとも、水攻めが三成が考えたことではなく、秀吉の命令だったという見解は、かねてより中井俊一郎氏によって述べられていることで、上述の両書状も根拠として挙げられています。その見解は、オンライン三成会編「三成伝説」や中井氏の「石田三成からの手紙」(共にサンライズ出版)で詳しく論じられています。番組では触れられていませんでしたが、鈴木氏の見解は中井氏の見解の踏襲と云えます。
 水攻めができなかったということに関しては、忍城の方が三成が本陣を置いた丸墓山よりも高さがあるために、堤を築いて取り囲んでみても、水が城までたまらないと鈴木氏は指摘していました。
 しかし、水攻めの失敗は秀吉に代わって三成がかぶったために、三成がいくさ下手という評判が広まったと番組では説明されていました。むろん、三成がいくさ下手と言われるようになった大きな要因は、番組では述べられていませんでしたが、関ヶ原の戦いで敗れたことが挙げられます。
 三成がいくさ下手どころか、優れた戦略眼を持っていたことについても番組で触れてもらいたかったところです。文禄の役の際の碧蹄館の戦いでは、三成の優れた戦略眼によって、味方を勝利に導いたと、中井俊一郎氏によってかねてより指摘されており、この点ついても「石田三成からの手紙」や「三成伝説」に記されています。゜
 

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