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zoom RSS 石田三成の実像1666 今回発見された嶋左近書状二通2 北条攻めに参陣・「清興」の署名が証すもの

<<   作成日時 : 2016/07/05 10:38   >>

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今回、発見された嶋左近の書状二通ですが、勇猛な武将としてだけではなく、官僚としても有能だったということがわかる内容のものでした。それは、2008年に発見された三成書状が、「年貢の率は嶋左近、山田上野、四岡帯刀に命じたので、その指示で行なえ。三人は不正がないように誓詞まで出している」という内容のものであることからも、嶋左近が領国経営に手腕を発揮していることがうかがえますが、今回の嶋左近の書状の発見はそのことを裏付けるとともに、他の大名との取次的な役割をも果たしていたことがわかる貴重な発見です。
 また今回の書状が、北条攻めの直後のものであることから、嶋左近が北条攻めに加わっていたことを間接的に示しています。これまでは、「多聞院日記」天正18年(1590)5月17日条に「左近陣立ルス(留守)」という記述があることから、左近が北条攻めに加わっていたと推測されていました(坂本雅央氏『平群谷の驍将 嶋左近』)。
 もっとも、嶋左近が三成の家臣の立場で、書状を発していたかどうかについては、慎重さが求められます。文禄元年(1592)4月10日条には、左近夫妻が佐和山城に居住していたという記述があり、この時はすでに三成の家臣になっていたと考えられます。もっとも、左近は秀吉の家臣であり、付家老として三成に仕えたとする坂本氏の見解があります。
 三成が正式に佐和山城主になったのは、文禄4年(1595)7月のことですが、天正19年4月に豊臣家蔵入地の代官になり、佐和山城を拠点としています。
 嶋左近の名乗り(諱)については、清興(きよおき)、勝猛(かつたけ)、清胤(きよたね)、友之(ともゆき)など数々ありますが、今回の書状には、「清興」という署名が入っています。
 一昨年の8月に奈良県の平群町で行われた坂本氏の講演会で、筒井氏に仕えた嶋左近と、石田家に仕えた嶋左近は別人(親子)であり、代替わりしたと主張されていましたが、三成が仕えた嶋左近は諱が「清興」である(筒井家に仕えたのは嶋左近友之)と指摘されていました。このことが今回の嶋左近の書状で裏付けられた形です。
 坂本氏の講演会の内容については、その時の拙ブログ記事で記しましたが、石田家に仕えたのは嶋左近清興であるとの根拠について、次のような点が挙げられていました。
 すなわち、「多聞院日記」に「清興」の名が見えるのは天正18年(1590)以降であること、天正5年4月に左近が春日大社に奉納した灯篭が現存し、その銘文に「嶋左近蒸清興」と記されていると思われてきたが、諱の部分は「清興」とは読めないこと(「清」の部分は「兼」ではないかと指摘されていました)こと、「多聞院日記」には、嶋左近清興が佐和山に居住していたという記述があることなど。

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