関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1660 坂口裕子氏「古橋村の伝承 石田三成」 2 匿った与次郎との接点・ニラ粥

<<   作成日時 : 2016/07/09 12:27   >>

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 能面師真弓能の坂口裕子氏の「古橋村の伝承 石田三成」ですが、前にも拙ブログ記事で触れたように、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の「近江・古橋」の章に、古橋に伝わる三成にまつわる伝承がいろいろ書かれているものの、坂口氏の同書で新たに知ったこともありました。
 関ヶ原の戦いで敗れ逃走していた三成が捕縛された状況については、いろいろな史料に別々のことが記されており、実際のところどうだったのかは、よくわかっていないということが、太田浩司氏の「近江が生んだ知将 石田三成」(サンライズ出版)で指摘されています。場所についても、古橋村の他に草野、脇坂村、井口村、河合村と様々だと記されていますが、古橋村以外にも三成が捕らわれたという伝承があるかどうかは私自身は把握していません。
 坂口氏の同書では、古橋で三成を匿った「与次郎は三成の幼馴染で、かつて三珠院で寝起きを共にした程の仲であった」と記されています。三成と与次郎の関係については、古橋ではこういう伝承が一般的なのでしょうか。
 司馬遼太郎氏の小説「関ヶ原」(新潮文庫)では、この点について、かつて三成が古橋村を巡視した時に、三成に声をかけられた与次郎が感激し、三成に特別な感情を抱いたと書かれています。
 こういう描き方は司馬氏の創作かもしれませんが、古橋の伝承にあるように、三成と与次郎との間に何らかの接点があったことは十分に考えられます。よしんば、そうでなかったにせよ、与次郎たち古橋村の人々が善政を敷いている三成に親近感を覚え恩義を感じていたことは事実であり、三成のことを密告したのが他村から迎えた養子だったためにそれ以降は、古橋村の人々は他村から養子を取らなくなったということがそのことを示しています。他村から養子を取らなくなったということは、坂口氏の同書にも「三成伝説」にも記されています。
 坂口氏の同書では、「三成が腹を痛めていたので、与次郎は自宅へ連れ帰り、ツシ(茅葺屋根の天井裏物置)に匿って、ニラ粥などを与えて看病に努めた」と記されています。
 「自宅へ連れ帰り」とありますが、それまで与次郎は三成を「大蛇(おとち)の岩窟」に匿っていました。自宅の「ツシ」に匿ったことについては、古橋の伝承として「三成伝説」でも紹介されていますが、「ニラ粥」については、「三成伝説」には、三成は自分を捕らえた田中吉政に対して、「腹中の悪しきに韮雑炊を賜え」と頼んだという「常山紀談」の記述が取り上げられ、それに倣って、古橋では「腹痛には韮がゆを食べるようになった」と記されています。 与次郎がニラ粥を三成にふるまったということが実際、あったのかどうかは判然としませんが、三成が食べたことをきっかけに、古橋で食べるようになったのは事実でしょう。
 

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