大河ドラマ「真田丸」31回「終焉」で、死ぬ前の秀吉は、三成に対して「家康を殺せ」と命じていました。三成は真田昌幸に家康暗殺を頼み、その意を受けた出浦昌相が家康屋敷に忍び込むものの、その侵入に気づいた真田信幸が、そのことを告げたので、昌相は暗殺に失敗し、本多忠勝に斬られ、真田屋敷に逃げ帰るものの瀕死の重傷を負うという展開でした。 この時の家康暗殺計画はむろん、フィクションですが、後に起こったとされる家康暗殺計画の伏線かもしれず、ひょっとして、真田家お抱えの佐助なども家康を暗殺しようとする場面がこれから先出てくる可能性もあります。 三成の家康暗殺計画は何度かあったとされていますが、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)には、そのうち、秀吉の死の翌年の慶長4年閏3月に起こった武断派による石田三成襲撃事件の際、三成が伏見城の治部少輔丸に逃げ込んだ際、嶋左近が家康の暗殺を献策したこと、翌慶長5年家康が会津攻めのため東下した際、三成が水口城主の長束正家と謀って牛ヶ淵で家康を暗殺しようとしたこと。前者については、三成が毛利輝元らと謀って武断派に反撃しようとしたのは事実であることが裏付けられていますが、左近が家康暗殺を謀ったとするのは史料としてはないようです。 後者については、家康は水口に立ち寄らずに先に進んでいますから、そういう噂があったのは事実かもしれません。もっとも、家康は会津攻めに向かうに当たって、三成が挙兵するとは思っていなかったと私は考えていますので、この暗殺計画は後から作られた話の可能性も高いような気がします。 「真田丸」では、秀吉は家康が天下を狙っているのではないかと警戒し、秀頼のためにも家康を排除しなければならないと思っていたから、三成に家康を殺すことを命じたという描き方ですが、秀吉が家康を警戒していたというのは確かなものの、実際は家康に秀頼を託すことに期待もしていたという二律背反的な気持ちを抱いていたのではないでしょうか。 それは三成も同じであり、三成は家康を五大老・五奉行制の中に取り込もうと必死になっていたのではないでしょうか。この点について、中井俊一郎の「石田三成からの手紙」(サンライズ出版)の中で、次のように記されています。 「三成の最大の政治思想は、混乱した世に秩序を打ち立てるものであった。家康がその公儀の秩序の中で動く限り、三成にとって敵対する意思はなかったと思われる。(中略)しかし家康自身が豊臣政権が作った秩序の破壊者として動き始めたとき、三成がそこに従う理由は失われた」と。 三成が家康と敵対していなかった根拠として、慶長4年9月、前田家らによって家康を暗殺しようという計画があったとされる事件の際、三成は家康の意向を受けて加賀攻めのため越前に出兵していることが挙げられています。 |
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