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zoom RSS 石田三成の実像1690 「歴史人」童門冬二氏の「石田三成の『義』とは何か?」1 三成の忠誠心?

<<   作成日時 : 2016/08/12 10:20   >>

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 「歴史人」九月号に石田三成のことが特集されています。「忠義か?野望か?なぜ石田三成は豊臣家に殉じたのか?」と題するもので、学者や作家などがいろいろな角度から三成の実像に迫っています。その中心は三成の名誉回復でありその点は大いに評価できますし、ここまで三成が見直される時代がきたことに感慨を覚えます。もっとも、書かれている内容については、その通りと納得できるものがある一方、これは違うと疑問を感じるものもありました。相変わらず従来からの捉え方がされているものもあります。
 まず童門冬二氏の「あくまでも秀吉に忠義を貫いた石田三成の『義』とは何か?」が掲載されていますが、題名からもわかるように、三成の忠誠心は秀吉に限定されていたという捉え方がされています。そもそも、三成を忠誠心だけで捉える見方が、前近代的で疑問に思えます。このことは、太田浩司氏の「近江が生んだ知将 石田三成」ですでに指摘されています。
 すなわち、「江戸時代の三成評を否定しようとしている我々が、江戸時代の儒教思想に基づいた『君に忠』の思想に呪縛されてどうするのであろう。(中略)高い志を掲げる政治家や官僚が、『忠義』という二文字だけでなく果たして行動するであろうか。私は三成を、そんな姿に矮小化したくない」と。
 三成が秀吉に絶対的な忠義を尽くしていたかと云えば、そうではありませんでした。秀吉に対しても諫言するところは諫言していました。白川亨氏はそのような三成のことを「直言居士」だと称しておられ、利休切腹事件の時も、諫言するに違いない三成を遠ざけていると論じられています。三成は朝鮮出兵に反対でしたし、博多の商人の嶋井宗室と反対したということが「博多記」に記されていますし、実際、渡海した三成が戦争を継続することの困難さを報告した連署状を書いています。むろん、忍城の水攻めを秀吉の命令に従ってその困難さがわかっていながらも実行するなど、不本意ながらも秀吉の命令に従っています。そういう苦しい三成の立場を中井俊一郎氏は「中間管理職の悲劇」と呼んでおられます。
 もっとも、童門氏の文章は、三成が家康に歯向かったために江戸時代に「奸臣」と蔑まれた人物像を正し、その清廉潔白さを明らかにしている点で、大いに意義があります。「『主人から与えられた物はすべて主人のために使う』というのが、三成の信条であった」と指摘され、その例として、自分の知行の半分を提供して嶋左近を召し抱えたこと、関ヶ原の戦いの後、三成の居城であった佐和山城には何の財物も残っていなかったことなどが挙げられています。また戦国時代の主従関係は至ってドライなものであったが、三成の秀吉の忠誠心は「純金のように至純で、湿り気がなかった」と記されています。忠誠心云々ということは別にして、身が清らかであったのは事実です。
 
 

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