関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1692 シンポジウム「西軍の関ケ原合戦」2 谷口央氏の講演2 朝鮮出兵と民衆・取次

<<   作成日時 : 2016/08/14 11:17   >>

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 11日に長浜で行われたシンポジウム「西軍の関ケ原合戦」の中の谷口央氏の講演で、「朝鮮出兵と民衆」と題して、宇喜多領、毛利領、佐竹領の実態を記した史料を挙げながら、「高麗陣夫」の農民の負担が大きくなり、逐電が相次ぎ、荒れた土地が増えたことが明らかにされていました。その結果、民衆の政権離れが進んだと述べられていました。
 三成が危惧したのは、こういうことではなかったでしょうか。安定した平和な社会を作るのに奔走していた三成にとって、朝鮮出兵は害になるだけだとわかっており、それだけからこそ当初から出兵に反対し、自分が渡海した時にも、戦場の悲惨さをつぶさに見て戦争を継続する困難さをはっきり記した書状を書き送ったのであり、それからの三成は和平交渉を整えようと尽力しています。
 谷口氏の講演会の「豊臣政権と『取次』」のところで、「取次」について次のように定義されていました。
 「豊臣政権の政策伝達役であり、各大名別の担当者」であり、「単に『取次』だけではなく、絶対的な権限者」だったと。三成はその「取次」の一人であり、島津、上杉、最上などの取次をしていたと述べられていました。
 島津氏の場合は、昨日付けの拙ブログ記事で取り上げましたが、講演会では、その他に、伊達氏、宇喜多氏の場合が取り上げられていました。
 伊達氏の取次は浅野長吉でした。伊達氏は浅野を通じて豊臣政権の政策を受け入れた結果、検地によって家臣給地が減少し、朝鮮出兵のための動員が加重したことによって、旧臣(重臣)の離反が相次いだことが述べられていました。片倉小十郎景綱も慶長4年に離反し、その後復帰しています。伊達政宗自身も「取次」である浅野長吉に、慶長元年に反抗し、その時の文言の一部が史料として、講演会のレジュメに掲載されています。これは同年8月14日付で政宗が浅野に送った絶好状です。
 拙ブログ記事でも以前取り上げましたが、山本博文氏の「天下人の一級史料」(柏書房)の「豊臣政権の『取次』と奉行」でこの政宗の絶交状が紹介されています。この部分の現代語訳も掲載されていますが、次のように記されています。
 「今後は、浅野殿へ参ることも、申し入れることも一切止めます。また、御指南も頼みません。もしお尋ねがあれば、ここで書いたことを秀吉様へ披露していただいてもかまいません。恐々謹言」
 思い切った政宗の書状であり、へたをすれば、秀吉に処分されかねない書状です。政宗にこういう反抗ができたのは、政宗が政権中枢にいないからできたのではないかと、講演会では推定されていました。
 

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