関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1694  シンポジウム「西軍の関ケ原合戦」4 谷口央氏の講演4 政権維持は不可能?

<<   作成日時 : 2016/08/16 18:52   >>

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 11日に長浜で行われたシンポジウム「西軍の関ケ原合戦」の、谷口央氏による基調講演の中で、むすびとして次のような点が挙げられていました。
 @宇喜多氏、島津氏、伊達氏(長宗我部氏、毛利氏も含めて)など多くの家で御家騒動が起こったが、豊臣政権への臣従化の結果であり、特に西軍諸将は、豊臣政権に頼っていた家が多かったこと。
 A御家騒動もしくは不戦の家の特徴は、旧来からの領地を持ち、そこから移動しなかった大名家中が多かったこと。上述の各大名はいずれもそうだったといいます。
 B御家騒動は豊臣政権の政策実行への大名家臣団の反対運動だった場合もあること。島津氏、伊達氏、宇喜多氏もそうだったのではないか。
 その抵抗運動は、豊臣政権の政策実行者である、「取次」(三成を中心とするいわゆる五奉行ら)へのものもあったこと。特に朝鮮出兵のために太閤検地が行われたが、それに民衆は抵抗し、それが政権基盤の崩壊を招き、豊臣政権の維持は、もはや不可能な状態だったとも言えること。朝鮮出兵での朝鮮半島派兵軍と秀吉をつないだのが、三成を中心とするいわゆる五奉行であり、抑え役の前田利家の死直後に三成暗殺未遂事件が起こったこと。関ケ原合戦で東軍は、個別で権力体制が維持できている者で形成されており、家康がその中心となったのに対して、西軍は個別権力が不足しているものが多く、豊臣政権の絶対的な権力を求めている者と、政権自体の中心的存在であった三成らで構成されていたこと。
 確かに、西軍の中には御家騒動を抱えている大名が少なくありませんでしたし、宇喜多氏のように宇喜多氏を離れた重臣たちが東軍として戦いました。しかし、豊臣政権の維持が不可能だったとは思えませんし、秀吉の死後、朝鮮からは撤退し、三成たち政権側はもう出兵することは考えていませんでしたから、民衆の不満はそれ以上募ることはなかったのではないでしょうか。むろん、それまでの不満が新たな政権を期待したという面はなかったとはいえませんが。
 「豊臣政権の維持は、もはや不可能な状態だったとも言える」というのは、関ヶ原合戦の結果から見た捉え方ではなかったという気がします。後のシンポジウムで、西軍がもし勝っていたらということについても、話し合われていましたが、そういう想定は可能な状況であり、家康は必ず勝てるというものではなかったのではないでしょうか。谷口氏はその質問に対して、各地に毛利、島津、上杉などの大大名がいたから、連合国家みたいなものになっていたのではないかとおっしゃっていましたが、その通りではないかと思いました。
 

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