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zoom RSS 石田三成の実像1695  シンポジウム「西軍の関ケ原合戦」5 鳥津亮二氏の講演1 小西行長の動向

<<   作成日時 : 2016/08/17 10:45   >>

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 11日に長浜で行われたシンポジウム「西軍の関ケ原合戦」で、鳥津亮二氏のスポット講演「小西行長と関ヶ原合戦」がありました。鳥津氏の講演会は数年前、堺で聴いて以来です。今回はスポット講演で20分足らずの時間しかなく、「小西行長ってどんな人?」「慶長4年から慶長5年・関ヶ原合戦における動向」「行長はなぜ西軍だったのか」の3点に絞って説明されていました。
 講演会のレジュメには、行長の略歴が掲載されていますが、永禄元年(1558)生まれですから、三成より2才年上です。行長は豊臣政権で船の調達などを務め、「水軍司令長官」とフロイスが呼んでいたこと。天正14年(1586)、父の立佐が三成と共に堺奉行になったこと、また天正20年には、行長の兄の如清がやはり堺奉行になり、この時期三成の兄の正澄も堺奉行を務めたこと。天正15年の九州攻めの後、行長は北部九州諸大名の統括および三成と共に博多町割り奉行を務めたこと。文禄の役では第一軍として渡海し、平壌まで進軍したが、翌文禄2年、明・朝鮮軍の反撃により、日本勢は朝鮮半島南沿岸部へ撤退したこと。行長は秀吉の意向を受けて、明との和平交渉を行い、現地軍勢の統括役も務めたこと。慶長3年秀吉の死去に伴い、行長ら日本勢は全面撤退し、行長は年末に京都に到着したこと、行長が肥後南半分の領地を得たのは天正16年のことですが、10年のうち領地にいたのは1年に過ぎなかったこと。
 行長と三成と接点は多く、中でも博多町割り奉行を共に務めたこと、明・朝鮮との和平交渉に当たったことなどが挙げられていました。その和平交渉は「秀吉の意向を受けて」のものであり、よく言われるように「秀吉の意に反して」ではなかったことが示されていました。
 「慶長4年から慶長5年・関ヶ原合戦における動向」では、慶長4年1月から7月にかけて上方に滞在し、2月9日、大坂で三成の茶会に出席し、同席者は宇喜多秀家、伊達政宗、小西行長、神屋宗湛、石田正澄(『宗湛日記』)。3月11日、三成の一党、大坂の小西行長屋敷に集結(『石川忠総留書』)。この時、彼らが家康を暗殺しようとしたことが、小説などでよく書かれていますが、確かなことはわかりません。
 3月22日、黒田長政・毛利吉成・鍋島直茂・加藤清正より連署で弾劾される(『荻野由之所蔵文書』)。
 閏3月上旬、三成の使者として寺沢正高とともに毛利輝元のもとへ行ったこと(毛利元康宛毛利輝元自筆書状)。この書状は長浜市長浜城歴史博物館発行の図録「石田三成と西軍の関ヶ原合戦」に掲載されており、武断派7将による石田三成襲撃事件に際してのものであり、「本書から、本件の仲裁が輝元と景勝、家康に託されていたことがわかる」などと記されています。行長が三成の使者となっていたことは三成側に立っていたことを示しています。

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