関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1696  シンポジウム「西軍の関ケ原合戦」6 鳥津亮二氏の講演2 行長最後の上洛

<<   作成日時 : 2016/08/18 10:47   >>

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 11日に長浜で行われたシンポジウム「西軍の関ヶ原合戦」の中の鳥津亮二氏のスポット講演で、関ヶ原合戦前後の行長の動向について述べられていましたが、昨日付の拙ブログ記事の続きを記します。
 小西行長は慶長4年閏3月上旬、前田玄以・増田長盛・長束正家の使者の指示を受け、島津忠恒を伏見に送る(『種子島家譜』)。
 この後、行長は8月から翌年1月にかけて、肥後に在国し、領内統治の一方で、島津家内で起こった庄内の乱の対応に当たっています。これについては「内府」=家康からの指示をうけてのことだが、行長自身の行動は「公儀」の指示を受けた寺沢正成次第である(9月24日付の島津忠恒宛の小西行長書状)、「内府様御内存」を寺沢から聞き、それに従って自分は行動している(9月27日付の島津忠恒宛の小西行長書状)と説明されていました。
 庄内の乱と行長のかかわりについて、鳥津氏の「小西行長」(八木書店)の中で、「結局行長は最後まで庄内の乱に直接関与することはなく、乱は伊集院忠真が下城することで解決した」と記されています。また行長と家康との関係について、鳥津氏の同書に、「家康個人に対する忠実さではなく、豊臣政権(『公儀』)の実質的運営者としての家康に対する対応であったと考えるべきであろう」と指摘されています。
 関ヶ原合戦の起こった慶長5年の1月に上洛しますが、その理由についてはよくわからないと、講演会では述べられていました。そして、行長は二度と肥後に戻ることはありませんでした。
講演会では、上洛する直前の島津義久宛の行長書状が紹介されていましたが、その部分の現代語訳が、鳥津氏の同書で次のように記されています。
 「次に肥後へ下向した際には必ず参上し、いつもお世話になっているお礼を述べたい」と。
 この書状について、「今回の上洛についての『特別な覚悟』や緊張感は感じられない。まさか二度と肥後に戻れなくなるとは、この段階では全く想定していないようである」と鳥津氏の同書で改札されています。
 三成もこの時点では挙兵することは考えていなかったかもしれません。加賀攻めの際は家康に従っていた三成であり、挙兵を決意するのは家康が会津攻めを決めた時ではなかったでしょうか。直江兼続と家康を挟撃しようという話がかねてよりあったとする説もありますが、三成挙兵後の上杉勢が関東に攻め込まなかったということからみても、その可能性は低いような気がします。三成と兼続の間にそういう話が全く出なかったということまでは言えませんが。
 上洛した小西行長がどうしていたかは全くわからないと、講演会では述べられていました。行長の動向がはっきりわかるのは、7月になってからのことであり、「秀頼様御為」に三成らと軍事行動の意思を固めたということが、7月15日付の上杉景勝宛の島津惟新書状案に記されていると述べられていました。

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