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zoom RSS 石田三成の実像1681 大河ドラマ探訪411「真田丸」77 清正は蟄居していず・明との交渉決裂の真実

<<   作成日時 : 2016/08/02 10:34   >>

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 大河ドラマ「真田丸」第30回「黄昏」では、文禄5年閏7月13日に起こった伏見大地震から、明との交渉決裂、慶長の役の開始、醍醐の花見、秀吉の病床、形見分けなどを中心にドラマが展開していました。
 伏見大地震が起こって、清正が大坂から伏見に駆け付けたという描き方になっていましたが、清正が蟄居中ということは一言も出てきませんでした。これは最新の研究成果が反映しているからだと思われます。
 以前拙ブログ記事でも取り上げたことですが、熊本日日新聞社編の「加藤清正の生涯」の中で、地震直後の閏7月15日付で肥後の家臣に送った清正書状が取り上げられ、鳥津亮二氏によるその書状の解説に次のように記されています。
 「地震発生時に清正が上方にいたことは間違いないが、伏見にいた可能性は低く、和平交渉の妨害をとがめられて謹慎していた雰囲気はない。むしろ秀吉の意向を受けて、京都もしくは大坂で明の勅使を迎える準備をしていたと思われる」と。
 ここからは、清正が三成たちの進める和平交渉を妨害したとする従来の説が誤りであることがわかりますし、実際は清正は蟄居するどころか、明使を迎える役割を与えられていたわけです。むろん、三成の讒言による清正の蟄居などという捉え方は、後世に作られた悪意に満ちたものです。
 倒壊した伏見城は指月の森に建っており、秀吉はすぐさま木幡山に新たな伏見城を建てますが、「真田丸」では前回の放送で、地震が起こる直前、昌幸が木幡山に目を付け、ここに出城をこしらえたら、伏見城を落とせると言っていました。ここのあたりはフィクションでしょうが、昌幸の失わない野心を表す場面になっていました。
 しかし、秀吉が木幡山に築城すると知り、しかも昌幸は三成から堀の普請に当たってくれと言われて、築城ができずがっかりする姿が映し出されていました。
 確かに、指月の森より木幡山の方がずっと高く、大きな城が築け、非常に良い立地条件でした。拙ブログ記事で述べたように、指月伏見城の遺構は今まで発見されていませんでしたが、平成25年度に堀跡が発見され、その存在が裏付けられました。
 明・朝鮮との交渉決裂では、大坂城で直接明の使節と会って、条件が違うと言って立腹する場面にはなっていず、その点は最新の研究成果が少しは取り入れられているのではないかと思いました、しかし、「なんじを日本国王と為す」と書いてある文書に怒ったという点は同じでした。これも拙ブログ記事で取り上げたことですが、鳥津氏の「小西行長」(八木書店) では、大坂城の会見はうまくいったものの、使節が堺に戻った後、明側が朝鮮四道の割譲を認めなかったためだと指摘されています。 

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