関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1698 大河ドラマ探訪420「真田丸」86 秀吉死後も横柄さは変わらないという描き方

<<   作成日時 : 2016/08/20 10:59   >>

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 大河ドラマ「真田丸」第32回「応酬」は、秀吉の死後直後から、家康が秀吉の遺命に違反した問題までを中心として物語が展開していました。真田信繁が秀吉の馬廻だったというのは史実として確かめられていますが、その後、「真田丸」で描かれているように三成のそばに仕えていたのかどうかについては、私自身、寡聞にしてよく知りません。
 「真田丸」で、三成が家康に負けじと、屋敷に味方になりそうな人々を呼んでもてなそうとした時や、朝鮮半島から帰った加藤清正ら武将をもてなす時も、三成は途中で中座して細川忠興や清正の不興を買うという場面がありましたが、これでは人々は付いてこないという描き方でした。これは三成が横柄で人望がないという江戸時代からの見方がそのまま踏襲されている気がしました。
 三成が朝鮮半島からの撤兵を差配したことについて、中野等氏の「石田三成の居所と行動」(藤井讓治氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】所収)には次のように記されています。
 「三成は嶋井宗室に充てて書状を発し、9月末には博多へ下向するであろうと、告げている(『嶋井家文書』)。その後浅野・石田両名は筑前に入り、博多・名島城において実務を進める。11月2日には撤退を告げる使者として朝鮮にわたる徳永寿昌・宮木豊盛の両名を名島に迎えている。朝鮮から戻ってくる将兵の世話に当たる三成の筑前駐在は12月10日頃まで続き、この間の状況は『西笑』所収12月19日付山口玄蕃充て書状案にもみえる。朝鮮からの軍勢撤兵を見届けた三成は筑前を発ち、12月24日には島津忠恒らをともなって大坂に到着している(『薩藩旧記』)」と。
 「真田丸」では、撤兵に当たっていたのはもっぱら三成一人であり、三成一人に渡海していた清正の怒りが向かう(清正は三成と酒を酌み交わしたいと言っており、必ずしも三成のことを嫌ってはいませんでしたが)という描き方でした。
 家康が勝手に他の大名と婚姻を結ぼうとした時に、他の大老や五奉行が家康屋敷を訪ねて詰問しようとしたものの、家康の態度に恐れをなし、及び腰であったにもかかわらず、三成が一人家康に立ち向かうというところは、三成の熱さを感じました。もっとも、吉継は三成と家康の対決にならないように他の五大老や五奉行を中心として詰問するよう忠告していましたし、信繁も上杉景勝に家康を詰問するよう頼んでいましたが、実際には景勝は腰砕けになっていました、この景勝の態度は、関ヶ原合戦の際、関東に攻め入らなかった消極的な態度の伏線かもしれません。 三成がしゃしゃり出るというのも、関ヶ原の戦いに至る場面でも、そういうところが描かれるかもしれません。三成が挙兵の意思を吉継に打ち明ける場面で、三成自身は表に出ず、総大将の輝元を前面に出すようアドバイスするという話がありますが、本当に吉継がそう言ったかは一次史料では裏付けられません。この話も横柄な三成ということを前提にしたもので、私は疑問を持っています。
 

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