11日に長浜で行われたシンポジウム「西軍の関ケ原合戦」の、外岡慎一郎氏によるスポット講演は「大谷吉継の関ケ原合戦における立場」という題名が示す通り、吉継がなぜ三成の挙兵に賛同したのかなどや、関ヶ原の戦い前後の吉継の動向に絞って述べられていました。 佐和山の三成に呼ばれた吉継が、三成の説得に応じたということが一般には知られていますが、それが記されているのは軍記類であり、三成が首謀者で、吉継はそれに合力したという捉え方ははたして正しいのかという疑問が示されていました。それに対して、吉継が主体的に決断したとする情報として、「当代記」の記述が挙げられていました。すなわち、吉継は宇喜多騒動の仲裁に異議を唱え、家康と対立したと。徳川にとっては、それ以外に吉継が西軍に加わった理由は考えられないと云います。 外岡氏の「大谷吉継の実像」(『歴史人』9月号所載)には、佐和山城での三成と吉継の会話に関する軍記類の記述について次のようなことが記されています。 「三成の無謀な計略を、冷静な分析をもって諫める吉継という構図も共通してみえる。 江戸時代に書かれた軍記物や伝記類には共通して三成を貶め、吉継を浮き上がらせる文脈がある。そのあたりも考慮して真相に迫る必要があろう」と。 もっとも、外岡氏の同書には、「積極的に家康打倒を変えることはなかった」としながらも、「この時点で兵を挙げることは得策ではないと判断していたのではないか」と指摘され、そのことを思わせる「慶長見聞書」の記述が挙げられています。 すなわち、「吉継は前年の福島正則・黒田長政らによる三成襲撃事件に触れ、今ことを起こせば、再び彼らを敵に回すことになると言って諫めたという。(中略)秀頼を旗印にすることを目論見ながら、北政所のもとで少年期を過ごした者たち同士が戦うことの愚かさと、不利を考慮したということは充分考えられる」と。 その吉継の判断は正しかったわけですが、三成は正則たち豊臣恩顧の武将にある程度、期待をかけていたと思われます。そのことがうかがえるのは、正則の居城の清州城を攻めることをせずに、開城を促している点です。確かにそこに甘さがあったわけですが、理や情に訴えれば、味方に引き込むことができると思っていたからではないでしょうか。その点で、正則が三成に向かって「情がない」と非難するという「真田丸」の描き方はおかしいような気がします。 外岡氏の講演会では、吉継が三成を「盟友」として見捨てられず、共に戦ったとする、従来からの「盟友」論を超える必要性が強調されていました。 |
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