関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1700 シンポジウム「西軍の関ケ原合戦」9 外岡慎一郎氏の講演2 敦賀から関ヶ原へ

<<   作成日時 : 2016/08/22 10:41   >>

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 11日に長浜で行われたシンポジウム「西軍の関ケ原合戦」の中の、外岡慎一郎氏のスポット講演で、吉継は伏見城攻略の折、吉継が伊勢・近江国境に築いた城の守将になっており、家康を迎え撃つつもりだということが8月1日付の黒田如水書状に記されていることが紹介されていました。伏見城が落城したのは、8月1日です。
 7月30日に、吉継は真田父子に書状を書いていますが、この時は大坂にいました。
 吉継は前田利長越前進攻への対応として、敦賀に向かっています。前田軍は3日に大聖寺城を陥落させますが、金沢に撤退する途次、9日に西軍の丹羽長重に浅井畷の戦いで敗れます。前田軍が撤退した理由について、外岡氏の「大谷吉継の生涯」(『歴史人』9月号所載)には、「判然としない」が、「軍記類はそろって、前田利家の娘婿中川宗伴を吉継が捕らえ、海路宮腰から金沢へ攻め入る大谷の別動隊があるとの謀書を書かせ、これを信じた利長が兵を返したと記している」と書かれています。
吉継が敦賀に戻ったことについて、外岡氏の同書には、「伊勢・美濃・越前を結ぶ防衛ラインを構築し家康を迎え撃つ」ためであったと記されています、8月5日付の真田昌幸宛の三成書状に記されている「備口人数」には、前述したように、伊勢口・美濃口・北国口・瀬田口橋爪在番などに分かれ、そのことが裏付けられます。
 外岡氏の講演会で、吉継は8月22日に大坂へ発ち、23日に美濃に向かい、大垣城に入ったのは25日頃だと説明されていました。この吉継の移動について、講演会のレジュメに掲載されている外岡氏作成の「大谷吉継と西軍の関ヶ原合戦 関連年表(慶長5年、1600)」の8月23日の項に「大谷吉継が敦賀疋田で石田三成・島津義弘らからの要請をうけ、大坂行きをやめ、美濃に向かうという」と記されています。東軍が木曽川を渡って岐阜城に迫ったのが22日、岐阜城が陥落したのは翌23日ですから、事態は急を告げていました。
 吉継が宮上(山中)に布陣したのは9月3日頃ですが、三成は8月26日から9月6日にかけて大垣城を留守にして佐和山に帰還しますが、その理由は定かではありません。しかし、岐阜城が陥落し、防衛ラインの後退を余儀なくされ、佐和山の備えを整えるためであったのではないかと考えられますし、佐和山で大坂と連絡を取り、毛利輝元の出陣を促したのかもしれません。
 吉継が山中に布陣したことについて、外岡氏の同書では、「大垣城の後詰という位置になる。この時点では、吉継もこの関ヶ原が主戦場になることを予想していなかったかもしれない」と記されています。もっとも、吉継は土塁の構築など準備を整えていましたし、三成も関ヶ原は選択肢の一つとして考えていたのではないでしょうか。むろん、主戦場が関ヶ原になったのは、9月14日に動きの怪しい小早川秀秋が勝手に大事な拠点である松尾山に入ってしまったからですが(中井俊一郎氏の見解)。
 

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