関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1701  シンポジウム「西軍の関ケ原合戦」10 真田家の選択・秀忠の遅参をめぐって

<<   作成日時 : 2016/08/23 10:37   >>

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11日に長浜で行われたシンポジウム「西軍の関ケ原合戦」で、いろんな観点から、谷口央氏、鳥津亮二氏、外岡慎一郎氏による話し合いが行われました。司会は太田浩司氏です。
 まず真田家が関ヶ原の戦いの際、東西に分かれたことについて、谷口氏は、分かれる家と分かれない家があり、真田家は昌幸が上田、信幸が沼田と所領が分かれており、家臣団も別々だったから可能だったと指摘されていました。このことについては、7月にやはり長浜で行われた黒田基樹氏の講演会でも言及されていました。外岡氏も真田家はそれぞれが独立しているという見解を示されていました。
 それを受けて鳥津氏は、小西家の場合は一族、家臣団共に分かれていなかったと指摘し、関ヶ原で東西に分かれた家はそれぞれ個別の事情があったとおっしゃっていました。講演会では触れられていませんでしたが、家が分かれていないという点では、石田家も同じであり、兄の正澄も三成も別個の独立した家であったにもかかわらず、行動を共にし、三成の家臣団の多くは関ヶ原で討ち死にし、正澄や父の正継・留守居役の家臣たちは佐和山城で亡くなっています。
 関ヶ原の戦いは徳川対豊臣の戦いではなく、豊臣対豊臣の戦いだったという笠谷和比古氏の見解に対して、外岡氏は西軍にとっては、豊臣対徳川の戦いにしたかったと述べておられましたが、「内府ちかひの条々」を出した三成ら西軍首脳の人々の思いはそうだったに違いありません。もっとも、家康は秀忠軍を温存しておきたかったのではないかという見解を外岡氏は示しておられましたが、これには私は疑問を感じました。秀忠軍が関ヶ原の戦いに遅参したため、戦後の論功行賞において、豊臣恩顧の武将たちに大幅加増をしなければならかったのであり、秀忠や徳川の家臣たちが、関ヶ原の戦いでもっと活躍しておれば、大名たちの全国配置地図が大きく変わったはずです。
 谷口氏は関ヶ原の布陣が東軍に不利な状況であったので、秀忠が間に合っておればその布陣も大きく変わっていたはずだと指摘しておられましたが、それはその通りだと思います。家康にとっては、秀忠軍が遅れたのは大きな誤算だったに違いなく、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の「美濃・関ケ原」の章でも、家康の誤算の一つとして記しました。
 鳥津氏は家康が秀頼をどうこうするつもりはなかったという意見を述べ、谷口氏も、家康は関ヶ原の戦いの後も大老の一人として動いているとその意見に同意していました。豊臣政権の大老という地位から脱却するために、家康は将軍職に就くことを決め、それを実行しました。しかし、秀頼が成長するにつれ、家康も将来のことを考えると、豊臣家をなんとかしないといけないという気持ちに代わっていったのではないでしょうか。二条城で、家康が秀頼と会見して以来、その思いがますます強くなっていったものと私は見ています。

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