関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 石田三成の実像1702 大河ドラマ探訪421「真田丸」87 家康襲撃計画?1 惣無事を自ら破る?1

<<   作成日時 : 2016/08/24 10:22   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 3 / トラックバック 0 / コメント 0

 大河ドラマ「真田丸」第33回「動乱」は、三成が家康屋敷を襲撃しようとするものの、結局は断念するまでの経緯を中心としてストーリーが展開していました。それは慶長4年1月21日のこととして描いていました。
 家康による秀吉の遺命違反問題をめぐって、家康と三成らが対立したのは事実ですが、このことについて、尾下成敏氏の「前田利家の居所と行動」(藤田讓治氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】)には、次のように記されています。
 「1月19日、家康と毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家・前田玄以・浅野長政・増田長盛・石田三成・長束正家、そして、利家との政治的対立が表面化するが、武力衝突にいたることはなく、20日には和解が目指されていた(『言経』24日条)」と。
 これに従えば、21日に三成が家康襲撃をしようとしていたという「真田丸」の描き方は、ありえない話になってきます。
 もっとも、三成が家康暗殺を計画していたという話は、小説などでよく出てきます。司馬遼太郎氏の小説「関ヶ原」(新潮文庫)の中でも、この時期、嶋左近が三成に家康暗殺を進言するものの、三成は同意を示さず、前田利家を旗印にすると左近に答える場面がありました。
 小和田哲男氏の「家康との政争 『武断派はなぜ三成を憎んだのか?』」(『歴史人』9月号所載)の中でも、三成の暗殺計画について、次のように記されています。
 「利家の病気は重くなり、家康も3月11日には大坂に行って利家を見舞っているが、このとき、三成は家康を討とうとし、失敗したといわれている」と。
 「真田丸」とは時期が違いますが、三成らと家康が対立した時、両者の間で一触即発の危機にあったのは確かですが、この時点で三成から進んで家康を討つことは考えられないことではないかと私は思っています。
 なぜなら、「真田丸」でも触れられていたように、三成は「惣無事」を第一義に考えていましたし、五大老・五奉行制を遵守しようとしていたからです。違反した家康を排除しようと考えていたかもしれませんが、武力に訴えるにしても独断ではなく、他の大老と奉行の同意を取り付けた上のことだったはずです。
 「真田丸」でも、三成は家康を討つのに前田利家に秀吉の千成瓢箪を求めていましたが、先に上杉や毛利、奉行衆の同意を得るのが順番であり、三成は毛利の同意を得るように小早川秀秋に頼み、上杉の同意は信繁に頼んで利家のところへ行っていました。もし家康襲撃を持ち出すなら三成自らが頼みに行ったはずであり、こういう三成の勇み足的な描き方は疑問に感じました。もっとも、上杉は後で三成のところへ来て、これからは三成のために動くと言って抱きあう感動的な場面をこしらえていましたが。
 

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 3
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
ガッツ(がんばれ!)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
石田三成の実像1702 大河ドラマ探訪421「真田丸」87 家康襲撃計画?1 惣無事を自ら破る?1 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる