関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1703 大河ドラマ探訪422「真田丸」88 家康襲撃計画?2 惣無事を自ら破る?2

<<   作成日時 : 2016/08/25 11:03   >>

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 「真田丸」では、三成による家康襲撃計画(私はそういうものはなかったと思っていますが)、三成の依頼を受けた真田信繁が直江兼続に、上杉が三成に与力するよう頼んでいましたが、兼続は最初きっぱりとそれを断っていました。「真田丸」では、三成と兼続の親しさがもう一つ出ていない気がします。この前年、上杉氏が会津に転封になった時、三成は兼続とともにその差配に携わり、連名で掟書を出しています。大河ドラマ「天地人」の時には、.兼続と三成の親しさが前面に出ていましたが、「真田丸」では、信繁が主人公になっているために、二人の関係は直接は示されず、信繁を介してのものになっており、その点に不満を覚えます。
 また三成は小早川秀秋に毛利輝元を説得するよう頼んでいましたが、確かに秀秋は毛利の一門衆であるものの、もともとは秀吉の甥であり小早川家に養子に入っただけであり、しかも18歳の若さであり、輝元を動かせるだけの力はありませんでした。大坂城から戻って来た三成は、秀秋が毛利を説得できなかったことに対して文句を言っていました。話をこういう展開に持って行っているのは、関ヶ原の戦いの折での小早川秀秋の動向の伏線なのかもしれません。
 北政所は家康の味方をするように加藤清正と福島正則に言っていましたが、それは秀吉が築いた平和な世を守るためだと述べ、三成の家康襲撃に反対していました。確かに、三成がそういうことを実際に考えていたとするなら、騒乱の首謀者になり、惣無事令違反になりますが、三成はそういうことを考えているはずはなかったというのが私の見方です。
 武断派七将による三成襲撃事件の際は、惣無事に違反したのは武断派の方であり、三成が反撃しようとするのも無理からぬことでした。その責任を取って三成が佐和山に引退した後、家康の横暴は強まります。前田利長が家康の暗殺を企てたとして、加賀攻めをしようとして三成も家康の意向を受けて出兵しますが、これはあくまで牽制であり、本当に戦いを考えていたものとは思えません。
 しかし、その翌年の家康による会津攻めは違いました。大軍を動員して、実際に会津攻めを行ないかねない勢いでした。これは完全な惣無事違反であり、三成は家康が豊臣家の名に借りて戦いを行なおうとしていることに危惧を感じたのではないでしょうか。こういう惣無事違反を、上杉で成功すれば、今度は毛利、次は島津と相次いで家康が行いかねず、そうなれば豊臣政権が築き上げたものが瓦解してしまうという思いがあったればこそ、三成は家康に戦いを挑むことに踏み切ったのではないでしょうか。むろん、自分たちも惣無事違反をしていることは百も承知でしたが、家康が先に破ったのだから致し方ないと考えたように思えます。
 

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