関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1704 大河ドラマ探訪423「真田丸」89 家康襲撃計画?3 三成上屋敷が描かれず

<<   作成日時 : 2016/08/26 11:07   >>

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 大河ドラマ「真田丸」で、伏見城の地図が出ていましたが、おかしな点がありました。三成は伏見城内の治部少輔丸にいたのに対して、家康は自分の上屋敷にいました。家康屋敷の隣には宇喜多秀家の屋敷があり、そこから信繁ははしごを渡して家康を攻撃しようと言っていました。家康屋敷、宇喜多秀家屋敷の位置はそれでいいのですが、「真田丸」で描かれていなかったものの、家康の上屋敷のすぐ南には三成の上屋敷がありました。三成は普段は上屋敷におり、政務がある時には治部少輔丸に登城していたものと思われます。
 だから、三成の上屋敷と家康の上屋敷は隣同士であり、三成が家康を襲撃しようと思えば、上屋敷からでも攻撃できたはずであり、その点が「真田丸」では完全に抜け落ちていました。
 前述したように、三成ら四大老・五奉行と家康の間に一触即発の危機があったのは事実ですが、家康は伏見におり、三成らは大坂にいましたから、伏見で戦いが始まろうとしていたわけではありませんでした。
 三成による家康襲撃計画があったとされるのは、司馬遼太郎氏の「関ヶ原」(新潮文庫)の中でも記されているように、家康が大坂の前田利家を見舞って、藤堂高虎の屋敷に泊まった時であり、警固が厳重で三成は断念したというふうに書かれています。私はこの暗殺計画についても懐疑的ですが、その時点で惣無事違反を自ら破ろうとしたとは思えないからです。 
 「真田丸」では、三成が惣無事を破ろうとしてまで家康を討とうとしたのは、「家康を殺せ」という秀吉の遺言に従ったという理由づけがされています。
 北政所が加藤清正と福島正則に家康を守るように言う場面がありましたが、確かに三成の家康襲撃は惣無事違反でしたから、それはやむを得ない面はあるものの、関ヶ原でも北政所は彼らに家康の味方をするように言うのではないかという気がし、それなら北政所=家康派という従来からの捉え方を一歩も出ていないことになります。北政所と三成の関係が、これからどう描かれるのか、見守りたいと思います。
 「真田丸」は、最初から伊達政宗は家康に味方し、三成に敵対していたという捉え方ですが、実際は三成との関係も保っていようとしている時期もありました。それがよくわかるのは、鳥津氏のスポット講演「小西行長と関ヶ原合戦」のレジュメにも載っていたことですが、慶長4年2月9日、大坂の三成が開いた茶会に、伊達政宗も宇喜多秀家、小西行長、神屋宗湛、石田正澄と共に出席しています。伊達政宗の娘の五郎八姫と家康の六男の松平忠輝と婚姻を結ぼうとして、秀吉の遺命違反だとして三成ら四大老・五奉行に詰問されますが、この時には和解が整っていました。

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