関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1682 大河ドラマ探訪412「真田丸」78 信幸や兼続との親しさが描かれていない不満

<<   作成日時 : 2016/08/03 10:54   >>

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 大河ドラマ「真田丸」の「黄昏」で、秀吉が上杉景勝と直江兼続に会津に転封を命じる場面が出てきました。「真田丸」には、「天地人」の時と違って、三成と兼続が仲がよかったというところは今のところ出てきません。この後、会津転封に関して、三成も会津に出向き、兼続と連署して、禁制を発しています。この後、三成は上杉氏の旧領である越後へ出向き、代官として藤井堰の掟を発しています。三成が佐和山に戻って来たのは5月3日のことです(典拠『義演日記』 中野等氏「石田三成の居所と行動」所載)から、その間、三成は上方にいませんでした。
 ですから、醍醐の花見の際には、三成は同席していませんでした。「真田丸」では、三成は同席しているという描き方で、秀吉が木から落ちた時、信繁と共に駆け付けていましたが、これはありえない光景です。むろん、秀吉が木から落ちたというのもフィクションですが、この醍醐の花見の後、秀吉が病気がちになったのは事実です。
 「真田丸紀行」で、醍醐寺で毎年4月に行なわれる豊太閤花見行列が紹介されていましたが、当時醍醐の花見に参列した歴史上の人物に扮した人々も行列に加わっており、その中に、三成の兄の正澄の姿があります。仕事で参加できない三成に代わって、正澄は奉行の一人として参加していたのでしょう。
 三成と兼続の関係が描かれないのは不満ですが、それ以上に不満なのは、真田信幸と三成の親しさが全く描かれていないことです。信幸宛の三成書状が13通残っており、しかも信幸はそれを廃棄せず、大事に保管し、江戸時代ずっと守り続けられてきたのですから、信幸の三成に対する思いは並々ならぬものがあったはずです。「真田丸」では、そういう関係を描くのはドラマとして都合が悪いからか、信幸は家康寄りの姿勢を見せています。信繁から秀吉の病状が悪いと聞き知った信幸は、それを早速本多忠勝に知らせに行っていますし、その前にも信幸は信繁に向かって、何かことがあったと時には、家康に就くと言っていました。こういう信幸の姿勢はドラマとしてはわかりやすいですが、実際には、三成との関係は深く、もっと複雑なものがあったはずです。三成も反家康を掲げて挙兵した時、真田家にそのことを打ち明ける書状を送っていますが、当然信幸も自分の方に加わってくれるものと思って、宛名に信幸の名も記した書状もありますし、三成は信幸が城主となっている沼田領を経由して、会津と連絡を取ることを考えていました。それが信幸が東軍に加わったために、沼田領を通っての会津との連絡ができなくなったのは、三成にとって大きな誤算でした。
 むろん、信幸が三成と親しくしていた時点では、家康は秀吉の臣下でしたし、天下取りの意向は秘めたままでしたから、信幸と三成が対立する要素はありませんでした。信幸と三成の親しさをドラマに盛り込めば、ドラマとしての幅も広がったに違いありません。

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