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zoom RSS 石田三成の実像1709大河ドラマ探訪425「真田丸」91 太田浩司氏「『真田丸』講座二」3忍城攻め1

<<   作成日時 : 2016/08/31 08:13   >>

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 27日に長浜で行われた太田浩司氏「大河ドラマ『真田丸』を3倍楽しむ講座 第二回」で、 忍城の水攻めは「真田丸」で描かれていたように、水攻めは三成が思いついたことではなく、秀吉の命令だったことを、当時の一次史料をもとに解説されていました。
 そのうち7月6日付の上杉景勝・前田利長・木村常陸介・山崎堅家宛の豊臣秀吉朱印状について、次のように解説(行田市郷土博物館発行の図録「石田三成と忍城水攻め」より)されています。
 「小田原城が開城し、北条氏政らの切腹と引き換えに、籠城した諸兵の助命を認め、城を受け取ったことを伝えるとともに、早々に忍城へ向い、堤を丈夫にするよう゜申し付けている。また、また14、5日ころには岩付へ向うので、その際に忍城の堤を見物するから工事を油断無く務めるようにとも命じている。これらから、堤防の工事が7月初旬まで続いていたことと、忍城攻めに対する秀吉の意思が最後まで水攻めにあったことが分かる」などと。
 堤は4日で完成したようなことが言われ、「真田丸」で三成も1日で完成させると言っていましたが、それは事実でないことがわかります。堤の長さは14キロとも28日キロとも言われており、数日で完成させるのは物理的に不可能でした。中井俊一郎氏も「石田三成からの手紙」(サンライズ出版)の中で、これだけの大工事を完成させるのには日数も費用もかかり、三成の一存ではできるはずはなく、秀吉の命令だからできたことだと指摘されています。
 また行田市郷土博物館発行の図録には、次のようなことも記されています。
 「秀吉の忍城来訪予定は7月4日付の一柳可遊(秀吉家臣)からの書状(『浅野家文書』)で浅野長吉へも伝えられており、天下統一の総仕上げの戦いで築かせた長大な堤を自らの目で確認したかったのであろう。秀吉は最後まで水攻めにこだわっていたのである。また、堤の工事についても、7月6日に深谷城主上杉氏憲の家臣秋元長朝が浅野長吉に対して、堤防工事に用いたと思われる竹木を熊谷で切って持参すると伝えており(『浅野家文書』)、前述の上杉らへの朱印状とも併せて、忍城戦の開戦以来工事が続けられていたものと考えられる」などと。
 これらのことから、忍城の開城は小田原城の開城の後だととする従来からの説が正しいことがわかります(6月に忍城が開城したという説があるものの)。
 同図録には、忍城の開城交渉がまとまり、浅野長吉が木村常陸介が入城し、しばらく滞在し、「忍において浅野の働きが際立っていたことを伝えている」木村書状が残っていること、「三成は忍城が開城すると奥州仕置のため、東北へ向って行った」ことなども記されています。
 「真田丸」には浅野長吉は登場していませんでした。中井俊一郎氏の「石田三成からの手紙」(サンライズ出版)には、7月3日付の浅野長吉宛の秀吉朱印状や上述の7月6日付の秀吉朱印状が取り上げられ、秀吉が水攻めにこだわっていることが指摘されています。

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