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zoom RSS 石田三成の実像1683 大河ドラマ探訪413「真田丸」79 秀吉の亡くなった年は三成は大半上方にいず

<<   作成日時 : 2016/08/04 15:48   >>

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 大河ドラマ「真田丸」の第30回 「黄昏」では、慶長の役に出陣する加藤清正が、三成同席のもと秀吉に対面する場面がありました。三成が「殿下の前で涙は見せるな」と清正に言ったのに対して、清正はうなずきながらも、「秀頼のことをよろしく頼む」と言われて泣き崩れる場面がありました。情けに厚い清正の姿が浮き彫りになっていましたが、かつて清正が三成に向かって「おまえには情けっていうものがないんだよ」と言っていた場面と呼応していました。三成は冷徹な人物という設定ですが、時に熱くなることもある場面も用意されています。
 熱い部分もあるというのはその通りであり、熱さがなければ、大大名の家康に対して挙兵するということもしなかったのではないかと思われます。もっとも、「真田丸」では、三成の冷徹な面の度が過ぎて横柄なところが目立つきらいはありますし、さきほどの清正の三成に対する言葉に対しても、三成は清正が去った後、「これだから馬鹿は困る」と言っていました。これは三成に対する誤解を生みかねない描き方だと思いました。
 慶長の役に出陣する前の清正と三成の場面に話を戻すと、少なくともこの時点では、まだ二人の間に大きな亀裂が入っていないように描かれています。文禄の役で、三成が清正のことを讒言し清正が蟄居したというのは作り事であり、ドラマでもそのことは描かれていません。三成の名誉回復の番組だったBSの番組「片岡愛之助の解明!歴史捜査」でも、三成の報告によって、和平交渉の妨げとなる清正を帰国させたという捉え方がされていました。この従来の捉え方がおかしいということについては、一昨日付けの拙ブログ記事で鳥津亮二氏の見解を取り上げました。
 「真田丸」では、秀吉が大谷吉継と三成に形見分けをしている場面がありましたが、形見分けのことについては、中野等氏の「石田三成の居所と行動」(藤田讓治氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】所収)に次のように記されています。
 「『西笑』所収の書状案によると、7月下旬には秀吉の遺物分けが進められており、秀吉の死はすでに現実の問題と想定されているようである」と。
 「真田丸」には、三成は常に秀吉のそばにいるように描かれていますが、秀吉の亡くなる慶長3年の8月までは秀吉のそばを離れている時の方が多かいのが実際でした。上杉氏の会津転封に伴う一連の作業のため、1月には会津に出向き京に戻ったのは5月5日、今度は小早川秀秋の転封に伴い筑前・筑後の代官として5月29日に出発し、戻って来たのは7月中旬です。この年、秀吉のそばにいたのはせいぜい一ヶ月ぐらいのものだったわけです。なお、筑前・筑後は三成に与えられるはずでしたが、三成はそれを辞退しています。
 

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