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zoom RSS 石田三成の実像1686 大河ドラマ探訪416「真田丸」82「秀吉チルドレンそれぞれの正義」7 確執?

<<   作成日時 : 2016/08/07 10:49   >>

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 文禄の役で、清正が漢城に戻ったのは文禄2年2月末のことですが、それまで咸鏡道にとどまり、奉行らの撤退命令に応じませんでした。
 秀吉が明攻めを命じたことを後悔し、朝鮮半島の支配確立が最重要課題と位置付けたという内容の、清正宛の秀吉朱印状が、熊本日日新聞社発行の「加藤清正の生涯」に掲載されていますが、その解説に次のようなことが記されています。
 「石田三成は『漢城への撤退命令を何度も出したが、清正は戻ってこなかった』と秀吉に報告。別の奉行も清正と同じ部隊の鍋島直茂宛ての書状で『咸鏡道での清正の敗北は周知の事実だが、清正はうまくいっていると言って軍議にも応じない。清正の敗北が知れ渡ったことで明軍が勢いづき小西らが敗北した』と記しており、清正と奉行たちとの間に確執が生じていることが分かる」と。
 咸鏡道にとどまっていたのはなんとか戦況を巻き返そうとしていた清正のプライドの表れかもしれませんが、これが小西行長や奉行衆らの間で、「確執」めいたものになったのは事実でしょう。しかし、それが処分の対象になるなどの大問題になった形跡はありません。清正も別ルートで明との講和に力を入れていますが、それは三成ら奉行衆と同じ路線でした。昨日の拙ブログでも述べたように、三成と同様、清正もその後帰国して、明使との講和交渉に努めています。
 NHKで放送された「真田丸第二章まるわかり 秀吉チルドレンそれぞれの正義」では、名護屋城博物館の武谷和彦氏は清正と三成について次のようなことを言っていました。
 「秀吉の命を受けた石田三成らの奉行衆と現地で戦って血を流している大名とで違う部分、対立する部分もあったんだろうと思う」と。
 海の向こうの現場で必死で戦い続ける者と、国内の拠点を預かり指揮する者、一枚岩だった秀吉チルドレンに亀裂が生まれましたという解説も入っていました。
 武谷氏の説明や番組の解説は、慶長の役ではあてはまるものの、文禄の役ではあてはまりません。文禄の役では、三成も幸州山城の戦いで負傷し「血を流して」おり、「必死で戦い続け」ていたわけで、後方でのうのうとしていたわけではありません。そういう無謀な戦いの実態がわかっていたからこそ、講和に向けて動き出したのでしょう。そういう三成にとって、講和が破綻し慶長の役が始まってしまったのは痛恨の出来事だったでしょうし、戦いにいかざるをえなかった武将たちの苦しみもよくわかっていたはずです。
 

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