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zoom RSS 京都探訪287 梅林秀行氏の「京都の凸凹を歩く」1 指月伏見城跡の高低差が示すもの

<<   作成日時 : 2016/08/08 10:30   >>

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 倒壊した伏見城は指月の丘に建っており、秀吉はすぐさま木幡山に新たな伏見城を建てますが、「真田丸」では、地震が起こる前の時点で、昌幸が木幡山に目を付け、ここに出城をこしらえたら、伏見城を落とせると言っていました。ここのあたりはフィクションだということは拙ブログ記事で前に述べましたが、確かに木幡山は指月の丘よりは高く、木幡山から指月の丘を攻撃するのはたやすかったのではないでしょうか。結果的に木幡山伏見城は堅固な城に仕上がり、慶長5年、三成が家康に対して挙兵した際も、西軍が木幡山伏見城を攻めますが、すぐには落とせませんでした。これが指月伏見城であったとしたら、もっとたやすく落とせていたのではないのでしょうか。城も堀の規模も全く違うことが、現地を歩けばよくわかります。むろん、木幡山伏見城跡の本丸部分などは桃山御陵になっているので、足を踏み入れる場所は限られでいますが。
 京都高低差崖会崖長の梅林秀行氏の「京都の凸凹を歩く」(青幻社)の中で、「巨椋池」「伏見指月」の章が設けられ、「伏見指月」の章では、伏見指月城の推定範囲の地図が示され、その付近の凸凹地形や25年度に初めて発見された城の遺構の発掘場所などが記されています。
 梅林氏の同書には、明治42年の古地図「陸地測量部地形図」が掲載され、指月伏見城があった敷地の様子がわかりますが、次のように解説されています。
 「自然地形とは少し印象が異なる『直線的』でところどころ『屈曲』もしている『不自然』な地形がみられ」、「直線的間な等高線はすなわち伏見指月城の石垣が連続したライン、等高線の屈曲は『折れ』『横矢』とも呼ばれるようにも思え」、「さらに等高線からは、敷地内は大きく三段構成で高低差が生じている様子も見て取れ」、「まるで『本丸』『二の丸』『三の丸』とも呼べるような構成」になっていると。
 梅林氏の同書では、「明治時代の古地図どおりの直線的で屈曲する三段構成の高低差を、敷地内の凸凹地形として観察でき」るとして、観月橋団地周辺の段差や公園すべり台に残る段差の写真が掲載されています。
 指月伏見城があったあたりは、NHKの番組「ブラタモリ・伏見編」で、梅林氏がタモリさんらを案内して歩いていました。「ブラタモリ」では、城の北限に当たる立売通も歩き、その凸凹地形が指月伏見城の「北堀」だと説明していましたが、そのことは梅林氏の同書にも記されています。
 「ブラタモリ」では、木幡山伏見城の北堀跡である北堀公園も紹介されていましたが、その堀の幅は百五十メートルに及び、その規模の大きさが強調されていました。北堀の比較からしても、木幡山伏見城の規模がいかに広大だったか実感できます。
 
 
 

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