関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1687大河ドラマ探訪417「真田丸」83 秀吉遺言状をめぐって 家康が作成させた覚書

<<   作成日時 : 2016/08/09 10:35   >>

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 大河ドラマ「真田丸」第31回「終焉」は、秀吉の最期を中心にドラマが展開していました。8月5日付で秀吉が五大老宛てに書いた、秀吉のことをよろしく頼むという有名な遺言書は、「真田丸」では、家康が秀吉に無理に書かせたという展開になっていました。それを知った三成・大谷吉継・真田信繁が、秀吉のもとに行き、その遺言書に奉行衆にも相談するようにとの文言を書き加えさせていました。
 この遺言書は、昨年行われた「大関ヶ原展」で展示され、その時の図録にも掲載されています。「豊臣秀吉自筆遺言状案」と題され、山口の毛利博物館が所蔵するものです。その解説には次のように記されています。
 「死期の迫った豊臣秀吉が、五大老に対し息子の秀頼の将来を託した遺言。徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家、五人の大老に秀頼の成り立ちを繰り返し頼み、このほかには思い残すことはないと結んでいる。末尾の注記によると、原本で自筆で認められたとする。秀吉は8月18日、数え年6歳の秀頼を遺して没した」と。
 「真田丸」で、三成が秀吉に書き加えさせていた部分は、「いさい五人の物二申しわたし候、なこりおしく候、以上、」というところでした。「五人の物」というのが五奉行のことだと三成が秀吉に説明し、「以上」と書き足したのは、これ以上付け足されるの防ぐためだと三成は信繁に言っていました。
 原文では、五大老は「五人のしゆ」と記されており、「しゆ」は「衆」のことです。確かに「五人のしゆ」と「五人の物」は区別されていますが、この遺言書をめぐって、こういう家康と三成の暗闘があったとするのは創作でしょうが、三谷幸喜氏の脚本家としてのうまさを感じさせます。
 家康が、秀吉の遺言書を作成させていたということが全くの創作ではないということは、清水亮氏の「秀吉の遺言と『五大老』・『五奉行』」(山本博文氏・堀新氏・曽根勇二氏編の『消された秀吉の真実』【柏書房】所収)で指摘されています。
 もっとも、家康が作成させていたのは上述の「豊臣秀吉自筆遺言状案」ではなく、同日付で作成された「秀吉遺言覚書」であり、早稲田大学図書館が所蔵するものです。この覚書は「内府 利家 輝元 景勝 秀家 この五人へ太閤様から仰せ出された通り、太閤様の口頭に従って五大老同士の縁組みのことについては、五大老が互いにお申し合わせになっておこなうべきこと」で始まるもので、清水氏の同書では、さまざまな検討の結果、この覚書は、奉行の一人である「宮部長熙(ひろ)もしくはその父継潤によって、徳川家康の利害に従って作成され、原本はおそらく家康に伝達された」と結論づけられています。
 

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