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zoom RSS 石田三成の実像171 0 小和田哲男氏「武断派はなぜ三成を憎んだのか?」1 讒言説や地震加藤説の踏襲

<<   作成日時 : 2016/09/01 10:21   >>

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 小和田哲男氏の「家康との政争 『武断派はなぜ三成を憎んだのか?』」(『歴史人』9月号所収)でも、加藤清正が三成によって講和交渉を妨害したと秀吉に報告されたため、帰国させられ謹慎処分になったものの、慶長大地震の時にいち早く家臣を連れて伏見城に登城したので、秀吉に喜ばれ、謹慎が解かれたという通説がそのまま記されています。
 拙ブログ記事でたびたび触れているように、この通説については、さまざまな点から疑問が呈されています。熊本日日新聞社発行の「加藤清正の生涯」には、慶長大地震が起こった直後の閏7月15日付の肥後の清正直轄地担当奉行であった新美藤蔵宛の清正書状が取り上げられ、その書状の中には、「秀吉から謹慎を解かれた旨の記述は見当たらない」し、「むしろ帰国直後に大地震に見舞われたにもかかわらず、領国の管理や交易に意欲的な肥後領主としての姿が浮かび上がる」と記されています。
 また同書状の鳥津亮二氏による解説には、「『地震加藤』の伝説にあるように、地震発生時に清正が上方にいたことは間違いないが、伏見にいた可能性は低く、和平交渉の妨害をとがめられて謹慎していた雰囲気もない。むしろ秀吉の意向を受けて、京都もしくは大坂で明の勅使を迎える準備をしていたと思われる」と指摘されています。
 清正が日本に帰国したのは同年の5月ですが、同書にはその直後の5月14日付の肥後の重臣たちに宛てた加藤清正法度書も取り上げられています。帰国した理由について、小西行長や三成の讒言によって日本に召喚され蟄居させられたという説がある一方、「清正とともに数人の武将も呼び戻されているため、日本で明の勅使を迎えるにあたり、秀吉が主な朝鮮在陣武将を対面の場に立ち会わせようとしたという説」があることも記されています。この部分からだと、どちらの説とも決めがたいという論調ですが、閏7月15日付の清正書状の解説からは、三成讒言説や地震加藤説は否定されているわけです。
 地震加藤の話がおかしいことは、これも以前に拙ブログ記事で取り上げたように、西山昭仁氏の「伏見城を襲った歴史に残る大地震」(『週刊日本の歴史 豊臣政権と朝鮮出兵の真相』【朝日新聞出版】所収)の中で指摘されています。地震で伏見城内が混乱している最中に、清正が多数の家臣を連れて登城するのは謀反と受け取られないから、その話は鵜呑みにはできないと。
 小和田氏の同書には、三成らが秀吉の代わりに奉行として渡海したことについて、清正や正則ら武断派武将たちは、「戦いも知らない三成らが自分たちを監督にきた」と受け止めたと記されていますが、「戦いも知らない」という見方にはうなずけません。 

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