関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1719 小和田哲男氏「武断派はなぜ三成を憎んだのか?」4 三成を隠居させた家康の意図

<<   作成日時 : 2016/09/10 11:25   >>

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 小和田哲男氏「武断派はなぜ三成を憎んだのか?」(『歴史人』9月号所収)の中で、「家康は、秀吉によって罰せられた武断派武将を取りなすことで、自己の人脈をふやしていった」と記され、三成襲撃事件のことにも触れられています。
 小和田氏の同書では、武断派が三成を襲撃しようとした際、三成が家康屋敷に逃げ込んだとする通説は間違いで、伏見城の治部少輔丸であったと記されており、「真田丸」でもそのように描かれています。正しい見解がようやく受け入れられてきたことには嬉しく思いますし、評価できます。三成のことが好意的に描かれていた「天地人」では三成が家康の屋敷に救いを求めてくるという従来からの描き方になっており、その点は失望しました。
家康が仲裁に入って、三成は奉行を解かれ、佐和山に隠居するわけですが、家康が三成を殺さなかったことについて、小和田氏の同書では「この時点で三成が殺されても豊臣の力が弱くなるわけではなかったからで」、「むしろ、三成を生かしておいて、自分に有利な形で使いたいと考えた」からだと記されています。
 理由の前半はその通りだと思いますが、後半には、後に三成に挙兵させて、反家康勢力を一掃するという関ヶ原の戦いを家康が想定していたという捉え方につながるものを含んでいるのではないかと思われます。司馬遼太郎氏の「関ヶ原」(新潮文庫)でもそういう捉え方をされています。ちなみに、小説「関ヶ原」でも、三成が逃げ込んだのは家康の屋敷に逃げ込んだという描き方になっています。
 家康の作戦としては、五大老・五奉行制をつぶすべく、個別に屈服させてゆく方法を取りたかったと思われ、そのためにまず武断派七将による石田三成襲撃事件の責を問い、五奉行の中心的な存在である三成を引退に追い込むという形を取りました。武断派の攻撃対象は三成だけでなく、奉行衆全体でしたが、三成たちも反撃しようとしていましたから、五大老の一人として家康は力を誇示するためにも事態を収拾させねばならなかったのではないでしょうか。家康にとって、目の上のたんこぶ的な三成を引退に追い込めば、十分だったと思われます。実際、このあと家康は伏見城に入りますし、小和田氏の同書には、家康が天下様になったという「多聞院日記」の記述が取り上げられています。家康は横暴を極めますし、家康暗殺事件の疑いで大老の前田利長を屈服させ、奉行の浅野長政を蟄居させます。この時、三成も家康の要請を受けて出兵していますから、家康は三成が完全に屈服したと思い込んだでしょう。次に家康は上杉景勝に的を絞りましたから、会津攻めがもし成功していれば、次に大老の毛利にも攻撃を仕掛けたかもしれません。三成が挙兵して反家康勢力を結集して、関ヶ原の戦いに至ったというのは、家康にとって想定外の事態だったと考えています。

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