関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 京都探訪287 梅林秀行氏の「京都の凸凹を歩く」2 豊後橋近くの太閤堤跡・向島城の遺構を示す段差 

<<   作成日時 : 2016/09/12 10:18   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 0

 NHKで放送された「ブラタモリ 伏見」では、木幡山伏見城跡をタモリさんらは梅林秀行氏の案内によって歩いていましたが、梅林氏の「京都の凸凹を歩く」(青幻舎)では、残念ながら木幡山伏見城は取り上げられていません。
 「巨椋池」の章で、秀吉がすべての道を伏見に通じるようにした巨大工事の痕跡が取り上げられています。当時は伏見城の南に大きな巨椋池があり、その池の上に新たな大和街道を作り、巨椋池を東西に分断していました。その新たな大和街道が太閤堤と呼ばれているものです。小倉堤ともいいます。
 京阪宇治駅の近くで発見された太閤堤の遺構は、新しく作られた大和街道の東側にもう一本作られた槇島堤の方です。すなわち、太閤堤は、小倉堤と槇島堤の二つあるわけですが、どちらも宇治川にかかる豊後橋(現、観月橋)に通じていました。豊後橋は、指月伏見城の南東隅にかかる橋です。
 秀吉が槇島堤を作った意義について、梅林氏の同書には、次のように記されています。
 すなわち、宇治川は「もともとは今よりも南東約4キロの宇治市槇島のあたりに巨椋池に直接注ぎ込んでいました。そこで豊臣政権は、もとの宇治川本流を、伏見市街地のすぐ南側を流れるように流路変更したのです」と。
 太閤堤の築造といい、宇治川の流路変更といい、いかに大工事を行ったかがわかります。なお、当時は巨大な池だった巨椋池は今は埋め立てられてありません。
 梅林氏の同書には、大和街道となっている太閤堤の遺構として、観月橋を渡って、南西のところにある、「道路の両側に高さ約4mの急斜面が連なっている」ところが取り上げられています。
 観月橋やその南の向島のあたりは私も散策したことがありますが、この太閤堤の遺構は知らなかったので、近々行って確かめたいと思います。
 向島には、かつて向島城があり、宇治川をはさんで北に指月伏見城、南に向島城という位置づけでした。向島城について、梅林氏の同書には、「秀吉のプライベート空間」であり、「別荘」だったものの、「本丸・二の丸・三の丸が水堀で分割された平面プランで、さらに石垣と天守を備えた本格的な近世城郭」だったと記されています。
 さらに同書には、昭和21年に米軍が撮影写真を見ると、「すでに巨椋池は干拓されて」おり、「細長水田区画が向島城のかつての『水堀』」であり、「中央の宅地と畑で占められる正方形状の微高地が『本丸』だと推定されると記されています。
 それを「現地で観察すると、池だった水堀推定地と微高地である本丸推定地の境界部分には、今も高さ1m未満の段差が連なっている」と指摘されています。このあたりの様子も自分の目で確かめるつもりです。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 2
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
京都探訪287 梅林秀行氏の「京都の凸凹を歩く」2 豊後橋近くの太閤堤跡・向島城の遺構を示す段差  関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる