関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1723 大河ドラマ探訪432「真田丸」98 ガラシャの自害をめぐって・三成の入城時期

<<   作成日時 : 2016/09/15 00:12   >>

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 大河ドラマ 「真田丸」では、本当は信繁の妻の一人であった「きり」をいろいろな人物と絡ませていますが、少々やり過ぎの感があります。秀次も出奔する時に、きりの様子を見に来ていましたし(秀次はきりを側室にする意思を示していました)、きりは細川ガラシャの最期も見届けていました。
 細川ガラシャが家臣に槍で突かせたというよく知られた場面も出てきましたが、これが史実であるかはわからないということが、金子拓氏の「記憶の歴史学」(講談社選書メチエ)で指摘されており、そのことは以前に拙ブログで取り上げしました。すなわち、ガラシャの最期は侍女であった霜が48年後に当時の記憶をたどって語った「霜女覚書」に基づくものであり、霜は家臣の小笠原が長刀でガラシャを介錯したと語っている(ガラシャが自害した時期は彼女自身が判断したのではなく、家臣の稲富が裏切ったため、小笠原が自害の介錯を行なったことも述べられています)ものの、細川ガラシャの最期を直接自分の目で見たわけではありません。霜がガラシャのことを語ったのは、60代後半であり、どれだけ昔の記憶に信が置けるか疑問だというわけです。
 「真田丸」では、三成が大名の妻子を大坂城に人質として入れるように命じたものの、細川ガラシャは、夫の忠興の言いつけを守って自分の屋敷から出ようとせず、自害に及んだという描き方であり、大抵の小説やドラマでもそのように描かれています。
 今までのドラマではほとんど、挙兵した三成が大坂城に入り、「内府ちかひの条々」を出すなどという描き方がされていますが、私は三成は桐野作人の見解通り、三成は佐和山にとどまったままで、大坂城に入ったのは7月30日、伏見城攻めを督戦した後だと思っています。人質を取るよう命じたのは三成ではなかった可能性もあるわけですが、ただ三成が佐和山から指示を出していたとも考えられますから、人質作戦もその一環だったかもしれません。
 大名の妻子を人質に取るのは、秀吉もしていたことで、伏見城下のそれぞれの屋敷に妻子を住まわせていましたし、家康も前田利長に家康暗殺の疑いをかけた時も、江戸城に、利家夫人のまつを江戸城に人質に取っています。伏見城や大坂城ではなく、江戸城にまつを呼び入れたところに、家康が前田家を自分の勢力下に入れようとする意思の強さを感じさせます。
 拙ブログ記事でこれもたびたび触れたように、「内府ちかひの条々」の原案を書いたのは三成であり、佐和山にいる三成の意向を受けて三奉行が書状を出したと考えていますが、その根拠は桐野作人氏の講演会で触れられていた、上杉家の家伝史料である「歴代古案」に収録されている「石田三成・増田長盛連署条目」であり、「内府ちがいの条々」と内容はほぼ共通しています。ただし、大きな違いは「内府ちがひの条々」には家康に対して敬語が使われているものの、「連署条目」にはそれがないことです。三奉行が三成の原案に、家康に対する敬語を付けたものだと考えられます。この「連署条目」は、「歴史人」九月号に掲載されており、桐野氏の詳しい解説が加えられています。

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