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zoom RSS 石田三成の実像1724 江宮隆之氏の「三成と家臣団の絆」2 嶋左近の新史料・若江八人衆の奮戦

<<   作成日時 : 2016/09/16 09:22   >>

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 江宮隆之氏の「三成と家臣団の絆」(『歴史人』9月号所収)の「島左近」で、新しく発見された天正18年7月付の嶋左近書状についても触れられ、「左近は三成の『外交官』として重用されていた一面が窺えるという」と記されています。また「島左近」のタイトルの小見出しにも、「『三成に過ぎたるもの』と称された歴戦の猛将にして、外交にも絡む敏腕軍師」と記されていますが、そういう新史料の発見が取り入れられた形になっています。
 この書状には「嶋」と署名されていますから、タイトルも「嶋左近」とした方がよいと思います。オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)でも、「嶋左近」という言い方に統一しています。
 江宮氏の同書には、杭瀬川の戦い、関ヶ原合戦の当日の嶋左近の活躍について述べられていますが、合戦の後日潭として黒田家臣団が、左近のすさまじさにその出で立ちを覚えていなかったという話が取り上げられていますが、このことは「三成伝説」の中でも記しました。
 また江宮氏の同書の「石田一門衆」のところでは、「熊谷直盛は三成の娘婿」と記されていますが、「妹婿」の間違いだと思われます。「歴史人」9月号には、楠戸義昭氏の「三成の最期と生き延びた子孫の謎」と題する文章が掲載されていますが、その中に「三成子孫略系図」も出ています。三成の娘として、山田勝重に嫁いだ長女、岡半兵衛重政に嫁いだ次女、津軽信牧に嫁いだ三女の辰子が記されていますが、熊谷直盛に嫁いだ女性は出ていません。もっとも、三成の側室には娘がいたという可能性はありますが。三成の子孫に関しては、白川亨氏の「石田三成とその一族」(新人物往来社)の中で、詳述されています。
一方、福原直嵩(文中では「直高」)の方は、三成の妹婿だと記されており、これは正しい記述です。もっとも、三成の妹については、研究があまり進んでいないような気がします。
 江宮氏の同書の「舞兵庫」のところでは、三成が武断派7将に襲撃された際、三成が家康の屋敷に逃げ込んだと記されており、従来通りの誤った捉え方がされています。実際には、三成は伏見城の治部少輔丸にたてこもって、毛利輝元などと結んで反撃しようと思っていましたが、大坂城を取られてしまったためにうまくいきませんでした。
 舞兵庫も含めた若江八人衆のことも、江宮氏の同書でも触れられ、秀次の家臣だった彼らは、秀次事件後三成に召し抱えら、関ヶ原の戦いで奮戦しますが、このことについて、「一旦家臣になった人物にはどこまでも誠意を尽くし、恩情を掛けるという三成の人間性に誰もが惚れ込んだ結果だといえよう」と記されています。なかなかいい見方がされていますが、秀次事件を三成が起こしたわけではないことを彼らは承知していたからだということも記してほしい気がしました。若江八人衆のことは「三成伝説」でも触れています。

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