関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1726 旅行記70東北旅行2 佐竹義宣夫人の墓? 久保田城跡2 天守も石垣も作らず

<<   作成日時 : 2016/09/18 17:07   >>

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 写真は秋田の佐竹義宣夫人であった正洞院と思われる墓を16日に撮ったものです。「思われる」と記したのは、これがはっきり義宣夫人の墓だとはそばに書かれていませんし、墓に書かれた文字も消えかかっており、よく読めないからです。ただ、「佐竹義宣夫人(正洞院)の墓入口」と書かれた碑が建っており、半ば藪になっている道をたどっていくと、今度は道にシートが敷かれており、そこを登っていくと、上の写真のところに行き着きました。
 正洞院は那須氏の娘であり、義宣に嫁ぎましたが、24歳の時に謎の自殺を遂げたとされている女性です。亡くなったのは、常陸においてでしたが、義宣が秋田に転封になった時も、彼女の遺骸を秋田に運び、正洞院という寺を建立しています。上述の墓の下の方の敷地には「正洞院跡」と書かれた碑が建っていますから、そのあたりが寺があった場所だと思われます。明治のはじめの廃仏毀釈によって、寺は衰退しました。
 私はこんなところに正洞院跡があるとは知らず、千秋公園から平田篤胤の墓を参拝しに訪ねたところ、その入口に「平田篤胤の墓の入口」と並んで「佐竹義宣夫人の墓の入口」の表示があったので、初めてわかった次第です。平田篤胤の墓の方は、石段がありますし、立派な墓であり、説明掲示板も建っています。それに反して、正洞院の方は入口付近がさきほど述べたように、藪のようになっており、本当にこのようなところを行った先に墓があるのかと、半信半疑で中を進みました。正洞院の悲劇が改めてしのばれるような気持になりました。
 義宣は関ヶ原の戦いの際、盟友の三成の呼びかけに応じて、西軍につくつもりだったものの、父の義重の反対で兵を動かしませんでしたが、結局家康の目には西軍寄りと見なされて、秋田に大幅転封されてしまいます。義宣ははじめ湊城を拠点としますが、久保田城に居を構えます。しかし、天守も石垣もない粗末な城でした。義宣はじめ家臣たちの苦難ぶりがよくうかがえる気がしますが、それは関ヶ原の戦いの後、同じように大幅減封された上杉家も毛利家も同様でした。
 上杉や佐竹と手を結んで関東に攻め入っておれば、また毛利輝元が大坂城を出て関ヶ原に打ってでておれば、大きく情勢が変わったに違いなく、徳川の世になってから、彼らはそのことを悔やんだのではないでしょうか。
 さて、この16日最初に千秋公園に行った際には見ていなかった北東側の弥高神社に参拝した後、そこを北に下りて土塁跡を見ましたが、これが石垣の代わりかと思うと感慨深いものがありました。公園を一番北側から出て、進路を東に取り、手形陸橋(下にはJR線が通っています)を越えて、北に向かうと秋田大学があり、その東側に平田篤胤の墓及び正洞院と思われる墓が建っています。
 

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