関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1727 カラー版「決定版 三成伝説」発行・担当部分で加筆訂正したところ

<<   作成日時 : 2016/09/19 17:28   >>

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 写真はこの9月15日に新たに出版された、オンライン三成会編「決定版 三成伝説」(サンライズ出版)を昨日撮ったものです。これは2009年に出した「三成伝説」と同様、カラー版のものです。モノクロ版で、サイズを少し小さくした「改装版 三成伝説」を2011年に出版していますが、今回、体裁を元通りにしたわけです。9月15日出版というのは、むろん、関ヶ原の戦いが起こった日に合わせています。もっとも、旧暦と新暦とは日がひと月余り違っていますが。旧暦で9月と云えば、季節としては秋の終わりの月であり、今と季節感が大きく異なります。
 表紙のカラーも、最初のものとは変えていますが、私自身、この17日、今回の出版に大きく尽力された彦根在住の田附清子氏に、秋田旅行の際初めていただき、手に取った次第であり、新たな感慨を覚えます。
 今回の再出版に当たって、私の担当部分については主として2か所加筆しました。一つは「美濃・関ヶ原」の章で、白峰旬氏の全く新しい見解について取り上げました。
 すなわち、「一次史料などを分析した結果、小早川秀秋は最初から東軍として参加し、勝敗は短時間で決したこと、主戦場は関ヶ原ではなく山中であったこと、関ヶ原の戦いの布陣図も歴史的根拠はないこと、家康が小早川隊に向かって鉄砲を打ちかけ裏切りを促したという、いわゆる家康の『問い鉄砲』は、江戸時代になってから、家康の活躍を演出するために創作されたものだということなどが指摘されている。白峰氏の見解は、従来の関ヶ原の戦いの様相を根本から覆すものだが、関ヶ原の戦いが短時間で済んだことについてなどいろいろと疑問点も残る。実際どのように関ヶ原の戦いが行われたのか、まだまだ研究の余地がある」と。
 もう一つは「紀伊・高野山」の章で、秀次切腹に関する、これも全く新しい矢部健太郎氏について取り上げました。
 すなわち、「豊臣秀次は文禄4年(1595)7月15日に金剛峰寺の柳の間で切腹した。従来は秀吉の命令で切腹したと言われてきたが、矢部健太郎氏の最近の研究によれば、秀吉は秀次を切腹させるつもりはなく、秀次が無実であることを示すために自分の意思で切腹したという。秀次が高野山に来たのも秀吉が追放したのではなく、秀吉と不和となり自分で聚楽第から出奔したという見解も示されている。秀吉は秀次に対して、高野山にある程度長期に渡って住むことを命じた7月12日付の『秀次高野住山』令を発し、福島正則らがその命令書を携えて高野山に向かったという。正則らは従来、切腹を言い渡すための使者だと考えられてきたが、そうではなかったことを矢部氏は明らかにしている。しかし、秀吉側は秀次切腹という「想定外」の事態を受けて、秀次に謀反の罪を後付けし、妻子らの処刑にまで踏み切ったと述べている。矢部氏の見解には、正則が秀次に切腹を勧めたのではないかとするなどの問題点もある」などと。
 こういう新たな見解を取り上げたこともあって、他にも細かい点で訂正しましたが、詳しくは本を見ていただければと思います。

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