関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1711 小和田哲男氏「武断派はなぜ三成を憎んだのか?」2  戦いも知らない三成?

<<   作成日時 : 2016/09/02 07:48   >>

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 小和田哲男氏「武断派はなぜ三成を憎んだのか?」(『歴史人』9月号所収)の中で、文禄の役の際、奉行として渡海した三成に対して、清正らが「戦いも知らない」と言ったというふうなことが記されていますが、「戦いを知らない」ということは当たりません。それまでの戦いにおいて三成や吉継がもっぱら兵站奉行を務めたことは事実ですが、北条攻めの際、三成は総大将として館林城、忍城を攻めています。文禄の役の際も、戦況を眺めていただけではなく、幸州山城の戦いでは負傷もしています。
 また碧蹄館の戦いでは、三成が戦略を立てて敵軍をそこで迎え撃つことを主張し、味方を勝利に導いています。
 「真田丸」でも、秀吉の死後、朝鮮半島から戻って来た清正が三成に向かって、「わしらが海の向こうで戦っている時、おぬしらはこっちで何をしておった」と言ったのに対して、三成は「うしろで算段をするのもいくさのうちだ」と答えていました。
 小和田氏の同書には、この清正と三成について次のように記されています。
 「撤退して博多にもどってきた清正らを三成が出迎え、労をねぎらい、『上洛の折、茶会を開いて慰労したい』というと、清正は『せめて稗粥(ひえがゆ)でもてなそう』と答えたという。兵糧窮乏に苦しんだ、朝鮮滞在中の苦言を三成にぶつけたことが知られている」と。
 この話は司馬遼太郎氏の小説「関ヶ原」(新潮文庫)でも記されていますが、このことを示す一次史料はなく、多分に創作的な話だと思っています。もっとも、慶長の役の際に処分された武将らが、怒りの矛先を三成ら奉行衆に向け、それが武断派七将による三成襲撃事件に結びついたのでしょうが、三成にとってはとんだとばっちりでした。三成が直接秀吉に彼らのことを報告したのではないからです。福原ら奉行衆は、本当のことを秀吉に報告し、その報告によって処分されたわけですが、もともと朝鮮出兵に反対の立場だった三成であり、戦地で戦う武将たちの気持ちがよくわかっていたにもかかわらず、福原たち奉行衆の報告を支持するしかありませんでした。そのあたり、三成は心に苦しみを抱えていたはずです。
 小和田氏の同書には、黒田官兵衛のことを秀吉に報告したのも三成という、これも従来通りの捉え方がされています。すなわち、トンネで官兵衛が浅野長政と碁を打っており、そのため待たされた三成が秀吉に報告したため、官兵衛はそのことを秀吉に弁明しようと無断帰国したので、蟄居謹慎させられたと。
 このことについて、拙ブログ記事でもかつて触れたことですが、中野等氏の「黒田官兵衛と朝鮮出兵」(小和田氏監修『黒田官兵衛』【宮帯出版社】所収)の中で、この話は「黒田家譜」に記されているものの、三成を貶めるために創作されたもので、実際は朝鮮半島「沿岸部での城塞構築と晋州攻略のいずれを優先すべきかで、現地と秀吉の判断が分かれており、官兵衛はこの調整を行うため」帰国したので、秀吉の怒りを買ったのだと指摘されています。

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